月下に誓う (その二人≪中世≫ 5)
あれは何度めの逢瀬だったろう。トゥーラが、見たことのない生成り色のローブを着て現れた。
月夜の岸辺に待ち合わせた想い人が、予想を超える可憐さで近付いてくる。純朴な素材の風合いが彼女の優しい雰囲気を引き出して、一目見た私は息を呑んだ。
「様変わりしたね」
それだけ言うのがやっとだった。
「驚きました?私もこういう服装は初めてで、まだ慣れないのですが」
ほんの少しだけ上擦った声に照れが混じっていた。着慣れた黒い衣も凛として似合っていたが、頭に緩く巻かれた布から輝く髪が覗いているのが以前に増して素敵だった。
トゥーラは、天候を自由に動かす力や、一国の革命の渦中の人物だったことなど到底信じられないほど素朴で優しい女性だった。優しさと強さを兼ね備え、かつ人懐こさで魅惑する。
「こちらの方が首元を出しやすいですよ」
トゥーラは、悪戯の共犯者のように口角を上げた。落ち着いた大人の女性としての魅力と純粋な子供心のギャップに射抜かれずにはおかなかった。
あの時、搾り出してでも賛辞を表しておけばよかった。如何に愛おしく想っているのか伝えられる機会がその場には無限にあったのに、硬派で粗野な中世の男にとっては困難な課題だったのだ。
私は寡黙に頭に巻かれた布を払い、いつものように彼女の滑らかな肌を突き破って芳醇な甘い液に舌鼓を打った。人の血は、十人十色に差異がある。密度が高く脂っこいもの、健やかだが大味なもの、成分が薄くて頼りないもの。勢いよく巡っていたり、低圧で遅滞していたりする。酒臭い血や甘味が過ぎるものもあった。共通点は、温かいこと。ひと時も休むことなく巡り続ける命の証だ。
トゥーラの血には良き香りがして欠点がなく、無上のまろやかさと控えめな甘さの虜になっていた。彼女は眉間に皺を寄せ、微かな呻き声を漏らして神経を触る痛みに堪えた。飲み過ぎないよう細心の注意を払ってゆっくり牙を引き抜くと、不器用に私の胸元を摑んでいた力弱い手を解き、溜息を吐いてふらりと身体を預ける。きつく目を閉じたまま身動ぎもせず。私は、呼吸が静かになるまでその柳腰を支え続けた。
憧れたあの女性が、今まさに自分の腕の中にいる。自分の両腕が彼女を抱き締めている---。信じられない思いと、与えられた役得に感謝したい気持ちとが半々だった。愛おしすぎた。この身体の温もりを感じられればと詮無い願いを込めながら、牙穴から溢れた血の玉を舐め取った。
その夜は、忘れられない夜になった。
別れ難い私の未練をよそに、いつも「それではまた」と淡白に立ち去るトゥーラが、微塵の名残惜しさを漂わせていた。頭の布を包み直すかと思ったがそのままにしていたので、色素の薄い美髪が月光をつやつやと跳ね返した。
「あの、今更なのですが、貴方の名前は何とおっしゃるの」
事ここに至って、私は一度も名を告げていないことに気付いた。
「僕は、僕の名は…」
機械的に発音できるはずの己の名は、焦っても落ち着いても一向に呼び出せなかった。記憶の糸口はするすると逃げるばかりで摑みようがなく、最終的に降参するしかなかった。
「…思い出せない」
「あら。では何か良き呼び名を考えましょうか」
トゥーラが微笑むと、名前すらない冷ややかな私の胸に、忽ち持て余すほどの温かいものが溢れ出した。
「例えば、私なら生国の古都の名をもらいました。オトは私たちが聞き取った音感から。ローザは花の名前ですね。ベアトリスが呼ぶと‘‘ローズ’’と聞こえます。そのベアトリスは、フランス生まれのお母様が名付けられたそうです。ここへ来た時着ていた外套に飾り文字のBが縫い取ってあったので、目覚めるまではただ‘‘ビー’’と呼んでいました。あ、これは内緒ですが」
悪戯っぽく眉を上げる愛嬌のトゥーラを、改めて満ち寄せる驚きの思いで見つめていた。全くの偏見なく、本当に親しげに笑顔を向けてくれる世界でたった一人の人。彼女は、私の光だった。
「僕はどんな名がいいだろう」
太陰の光輝さえ辱める煌めきが、濡れたような黒い瞳の上に踊っていた。太陽は喪ったが、彼女が微笑ってくれる代償なのだとしたらむしろ小さ過ぎる、と思った。もっと微笑って欲しかった。もっとずっと楽しんで、喜んで、笑い声を上げてくれていたらと思う。
「そうですね」
唇を少し尖らせて考え込む様子を見せてから、トゥーラの声が弾んだ。
「『アレクセイ』はどうでしょう。『護る』という意味を持ちますから、あなたにぴったりでは。安全に暮らせるように、私たちをいつも守ってくださるでしょう?」
彼女には驚かされることばかりだった。
聖化した森の作用なのか血液を配給されているからなのかは分からないが、私はここへ辿り着いてから冬を通して眠らなくても済むようになっていた。いくらか体力の消耗は激しく、昼間長めに睡眠を取り、多めに血液を摂取する必要はあったが。それだけでなく、早朝の薄陽程度であれば短時間外に出ていても発疹で済むようにもなった。日の出とともに川を訪れる彼女たちを深い木陰で警護できるくらいには好転していたのだ。
そして彼女は、私が毎夜欠かさず森を警邏していることに気付いていた。
日が落ちてからトゥーラが浄化の術を施しに出る時は、必ず近くで警備した。忍び寄る猛々しい夜行性の肉食獣を闇の気配で遠ざけ、今夜は立ち往生する到着客がいないかと見回った。気絶したローザを洞窟まで運んだのも、行き倒れていたベアトリスを見つけ、密かにトゥーラに知らせたのも私だった。ローザには抱え上げる際に姿を見られたので、忘却の催眠をかけた。洞窟の近くでトナカイに狙いを定めていた狼の群れを間一髪で蹴散らしたこともある。オトが初めてここへ来た夜のことだ。そのまま樹陰に隠れて彼女たちの出会いを見守った。トゥーラとローザが冬籠りの準備をしていた秋の終わりには、遠出して生活用品を失敬してきたことも。
無用な軋轢を危ぶんで、トゥーラ以外の三人には気配を悟らせないように注意していたが、私はすっかり彼女たちの用心棒のような心持ちだった。夜の見張りは自分の役目と勝手に心得ていた。
逃亡者の隠れ家には、いつ何が迫るか知れない。いざとなれば近さがものを言う。だから、存在を気取られないようひっそりと、だが本当はすぐそばにいたのだ。いわゆる<胎動する洞窟>には長い横穴があって、ちょうど煙抜きになっていた。立岩に阻まれて直接行き来はできないが、その狭い岩間が私の小部屋だった。川の方へ延びた狭い洞口から、私も巣食っていた大勢の蝙蝠たちも出入りしていた。
光の届かない細い洞穴で窪みに丸まって眠る私のところへ、四人の楽しげな会話や身の上話、啜り泣き、魘されて飛び起きる物音、夕餉の汁を煮る生活音などが逐一漏れ聞こえてきた。家庭の中の家族の気配のように、在宅していればだいたい誰が何をしているか分かった。私は彼女たちの同居人であり、知識を深める評論家たりえ、おそらく最大の理解者でもあった。やがて、個性やそれぞれの相性、体調や心情さえ手に取るように分かるほどになっていった。四人が醸す家庭的な空気は、暗闇の私に生気を与え、人間味を保持させ、孤独を癒す柔らかい魔法のようだった。
「洞窟の近くに置いてあった毛布も調達してくださったんですね。とても助かりました」
「南へ下ったところに打ち捨てられた山小屋があって。人数が増えたようだったから、凍えないようにと思って」
君が、は省いた。
「私も当座その小屋にはお世話になりました。鍵が錆び落ちているでしょう?」
慈愛たっぷりに微笑んだ彼女は、私の目をまっすぐに見つめ、やや改まった声音で私の心をさらにいっぱいに満たした。
「ありがとう。最初から最後まで、本当にありがとう」
私は、一気に天にも昇る心地になった。最初から最後まで、本当にありがとう---。その言葉の余韻で、孤立感や絶望といった業が癒され、私という一個の存在が丸ごと報われたように感じた。何しろ、私は新しく生まれ変わった護れる者だ。
私は彼女から、生きるための血と呼ばれるべき名を与えられたのだった。
そうだ。その夜は、全てが特別だった。
「萎えてしまった手は少しずつ動かせるようになりました。一向に治らなかったのは、不相応な高望みを摑もうとしているからだと言われたのですが…」
トゥーラは、迷いに迷った末に徐に打ち明けた。
「率直に言うのも罪深いことです。けれど、私には一つだけ願い事があるのです。聞いていただけるでしょうか?」
「願い事。それはもちろん」
「妹のようなオトやベアトリスを間近で見ていると、自分には決して叶わないはずの夢が心を占めて---。考えまいとしても、どうしても思い描いてしまうのです。自ら産んだ子を愛を込めて育ててみたい、と。
先頃、母と呼ぶ人を亡くしました。かけがえのない偉大なる存在でした。私が生きてこられたのは、他でもない母のおかげです。惜しみなく注がれた愛情を今度は返したいのです。望んではいけない望みでしょうか、人に尽くすためには。我が子を産み育てることは、人のために生きることには値しないでしょうか」
トゥーラの漆黒の目が、見たことのないほど真剣な光を帯びていた。
女性にここまで言わせたのは、中世に生まれた男の恥だ。私は、大きく一歩を踏み出して、温度のない腕で細かく震えるトゥーラを抱き取った。そして、密かに繰り返し夢想していた台詞を口にした。
「結婚しよう」
異族、不安定すぎる状況、先々への不透明さ。他の三人には伝えられるかどうか。事実としては問題しか思い付かなかったが、不思議と迷いはなかった。この女性と寄り添うことができるなら、そんな幸福は他にないと思った。
「はい」
一瞬の驚きの後、潤んだ目で彼女はそう応えた。はい、と返事を戻したのだ。聞き違いではなかった。この上なく穏やかな笑顔を、大きな丸い月が見守るように照らしていた。背中に回した腕に、思わず潰してしまいそうなほど力が込もった。こんなに可愛い人と結ばれるだなんて、一生分の運の総量が尽きた、とそれだけは諦めざるを得なかった。
正直に言えば、私はトゥーラの告白に動揺を隠しきれなかったが、男らしく勇気を振り絞った。トゥーラは身に付けて離さなかった銀の十字架を近くの樹の枝に掛け、私は決死の覚悟で彼女を抱き寄せた。
これは、私たち二人の秘密だった。吸血の逢瀬を重ねるうち、慕情とも隣人愛とも見えた親しみ以上の、ときめく情熱がお互いに徐々に高まっていたのは確かだ。
神に言い訳するならば、トゥーラが貞節の誓いを立てたのは、母親としての人生を思い描くこともできない幼い年頃のことだ。それに、私たちは、もはやそれまでの現実の全てを逸脱していた。二度と戻れる見込みも無かった。彼女の苦悩と、根っからの修道女が宣誓を反故にすることの重大さは伝わってきていた。だが、ただの一人の女性としてのトゥーラは、愛情の本能を選んだ。悩み抜いて、真っ直ぐに生まれてきた意味を見出そうとしていた。
僅かな欠けもない完全な満月が、誓約を交わしたばかりの二人に燦々と白い光を注いでいた。
「どうしてあの時僕を呼び止めたの。闇の者だと気付いていながら、傷の手当てをしてくれた。騙されて取って喰われるかもしれなかったのに」
彼女は、美しい紅い唇に嫣然と弓なりの笑みを佩いた。
「私はここに結界を張りました。生きたいと望み、共生する意志を持つ者をのみ森が迎え入れるように。あなたもまた聖域が受け入れた避難民なのです。夜の属性に引け目を感じていても、主食に少々難があっても、等しく神に創造され、必要だからこの世に生かされる一員です。ここに家族として集えたことに、私は感謝しています」
家族として、と彼女は言った。最初に出会った時のように、慈しみと愛が溢れる微笑みを僕に向かって浮かべながら。
また、こう付け加えた。
「どうしても必要な時、森の生き物はあなたに分け与えてくれるでしょう。取り尽くさず、感謝しながら分けてもらうのがよろしいと思います。渇きで我を忘れそうになったら思い出して---殺めず、諦めずに。そうすれば、あなたの心もきっと軽くなります」
殺めず、諦めずに。
月が照らし出すぎこちない手と冷たい手とが、約束の印のように繋がれていた。トゥーラが凍えずに済んだのは、季節外れに暖かい夜だったかららしい。私の方は、トゥーラの掌の体温と心に灯った熱りで、乾いた秋の温度くらいにはなっていたかもしれない。
記念すべき日の降るような星月夜に、私は束の間の幸せを享受した。
「君は、故郷の街で僕たちが出会ったことを覚えている?」
トゥーラは首肯した。確かな声で、ええ、と諾った。
「朝の川でお会いした時、あの時見舞った若者だとすぐに気付きました。覚えていますか?あなたはベッドの中で眩しそうに目を閉じながら『おかあさん』と呟いたの。掠れたような小さな声と、泣き出しそうな切ない表情が忘れられませんでした。掛け布から覗いていた特徴的な巻き毛も。あなたはなんら変わっていません。ごめんなさい。また来ると言っておきながら、私も寝付いてしまって…」
天涯孤独だった私は、幸せというものの色を知った。絶え間なく降り注ぐ月光に心まで染め上げられそうだった。
「外国風に‘‘アル’’と呼んでも?」
異論などあるわけがなかった。彼女に彼女自身の声で名を呼ばれる、その名は私だけのものだということがどれほどの価値を持つものか理解する者がいるだろうか。
「新生アルと魔女のトゥーラだ」
「まあ、なぜ魔女と?」
「人生を変えるほど強い魔法をかける人は、絶対に魔女だよ」
幸福な時をたゆたい、愛しさを噛み締めるトゥーラと私には、しかし新しい愛称で呼び呼ばれる機会は訪れることがなかった。




