天候魔女の血 (その二人≪中世≫ 4)
礼拝堂に吹き荒ぶ風は、相変わらず強い勢力を保っている。鋭く唸りながら枯葉を巻き上げ、時折どこからか吹き込む隙間風が、ハロウィン仕様の灯火を揺り動かす。煽られた炎が、気勢を上げて立ち昇っている。
わたしは、時代を超えた遠大な物語に完全に引き込まれていた。わたしたちの誰一人として知りようのなかった最初の魔女が、血の通った生身の女性として今語られる。
ミスター・ルウの昔語りは、彼女の段落であらゆる熱を帯びた。
強い護りが必要だった、とその後に聞いたことがある。黒目の聖女は、気象をはじめとするあらゆる自然現象を、空を撫でる独特の手付きで容易く変化させた。
ゆったりとした静かな儀式にやや遅れて、雲を集め雨滴で呼応する空を何度も見た。あるいは、厚く垂れ込めた雪雲を切り、冬季には珍しい晴れ間が覗くこともあった。しかし、しなやかに振られる腕に協調するはずの両の手首から先がぎこちなく固まったままであることにも気が付かずにはいられなかった。過ぐる日柔軟に額に置かれた手とは明らかに様子が違っていた。
世の趨勢が本格的な魔女狩りに傾くことを彼女は知っていた。トゥーラは、ここへ来てから昼夜を問わず付近の森一帯を聖化していたようだった。川を遡って水源の大湖を清め、清らな雨を降らせ、浄化の光を天から放って、元来精気の凝る特異な場所であったその領域をさらなる護りに強化した。
トゥーラが優しく撫でると、空気は純化され明るく変質した。その仕事は、彼女が森を出て行く間際までずっと続けられた。謂れなき弾劾から逃げてくる者たちを保護するため、生きるために駆け込んできた同志がここで生ききることができるように。トゥーラは、未来を見越すさらなる目的をも密かに胸に宿していたのかもしれない。
川岸の再会を果たした日、私は神秘の業を行う彼女の横顔に見惚れた。愚かにも夜が明けたことにも気付かないほど、一挙手一投足を見つめ続けていたのだ。
柔らかな曙光がじりじりと肌を焼いていた。思わず反射的に身を捩った時、足元の小枝が折れた。
トゥーラは、肩越しに振り返った。目と目が合った。美しい漆黒の目に吸い寄せられそうだった。息詰まる数瞬の間を置き、思わず駆け去ろうとする私に声が飛んだ。
「待って。あなた怪我をしているのでは」
頬の火傷を彼女は目に止めていた。引き留める一声に私の足は制され、追いついたトゥーラが顔を覗き込むまで、記憶から再生された増幅する心臓の音が耳を聾した。
「どうか手当てをさせてください」
そう言われた時には、もうほとんどその声も認知できないほど私は緊張していた。
離れる時機を逸した私は、幻覚にもかかわらずしつこく高鳴る心臓を宥めすかしながら、先導する聖女の後を大人しく付いていった。
繰り返し瞼の裏に思い描いた憧れの女性は、緩い黒衣からもそれとわかるほど華奢な身体をしていた。他の人間からは嗅いだことのない良い匂いがする。抱きすくめれば折れそうな腰の輪郭を不純にも想像してしまった。
小さな洞窟に着いた。内部に招き入れられると、焚き火が燃える岩壁の空間が広がっていた。
「奥の方へ入ってくださいね。光が差しませんから」
技巧は知る由もなかったが、彼女が私の正体を見透かしていたのは驚くべきことだった。
洞穴の奥には枯葉で設えられた寝床が伸べてあった。ここで、また私はどきまぎした。特別な香気とともに近寄ってきたトゥーラは、水に浸した布で溶けた肌を拭った。
「良い水なので早く治ります。染みますが、少し我慢してください」
怯える仔犬のようにびくりと反応する私を、憐れみ深い黒の目で励ました。私の心は、濡れたような黒目に吸い込まれていってしまった。
「あなたは夜に生きる習性なのですね。初めてです、そんな方は」
彼女が曲がった手を翳した。すると、じゅくじゅく焼けた額から、ひんやりと心地よい夜気が流れ込んでくるのが分かった。軸が戻り、力を得るのを感じた。
「陽を浴びて育ったものは召し上がれませんか?きのこなら日陰だから大丈夫かしら。よろしければスープを作りましょう」
私は面喰らって返事に窮した。私のような不明の存在に、彼女は温かいスープを振舞おうとしているのだ。己の卑小さが頭を擡げて、消えてしまいたいと思った。いっそのこと、犯した罪の重さで圧死させてくれればいいのに、と。
しかし同時に、この女性になら全てを告白してもいいのではないかという誘惑に駆られた。もしかしたら静かに受容されるかもしれないという希望を持った。
「よければ白湯を。落ち着きますので」
ほのかに湯気の立つ一杯のカップを差し出された。聖母の微笑みが、手を伸ばせば届くところで私に向けられていた。躊躇ったが、腹を括って飲んだ。嚥下しようとすると、生臭い泥の味がして噎せ返った。
それは、逆に事実を白状するための好機となった。咳き込む余勢を駆って言いきった。
「あの、僕は…人や動物に…吸い付いて血を飲みます。それ以外は、無理…です」
懺悔の重みと羞恥のために、顔を伏せずにいられなかった。反応を待った。侮蔑と拒否を恐れながらそろそろと伺うと、彼女はぽかんとした表情で目を丸くしていた。
長い睫毛を合わせて数度瞬きをしたトゥーラは、
「では、きのこはいけませんね。それなら、私の血を差し上げましょう」
そう決然と述べてから、
「一度にどれくらい召し上がります?」
おそるおそる質問を添えた。
「どこを噛まれますか。心の準備をしますので少々お待ちを」
そう言って十字架に触れる彼女を目の前にして、私は焦った。望外の申し出だったが、殺してしまうかもしれない。
だが、彼女からは偽善の理性など破壊する匂いがしていた。意識から締め出すのに苦労しながら、伸びてこようとする牙を無理して抑止した。触れてみたいという劣情と綯い交ぜになって、二人きりの洞窟で事実私は半狂乱だった。
「…首が噛み付きやすいですが…本当にいいのですか」
すぐにも飛びかかりたい逸る欲求をすんでのところで抑え込んだ。
「深く刺さります。かなり痛いと…」
トゥーラは、平然と答えた。
「ええ、我慢します」
間近で笑みを見てしまっては、私の辛抱も限界を超えざるをえなかった。勇んで肩を摑み頭巾をずらすと、透き通るような首筋が露わになった。柔らかな肉に牙を食い込ませ心ゆくまで貪りたい、と反射的に私は思った。
阻止するものは、もうなかった。辛抱堪らず、誰も触れたことのないであろう初心な肌にかぶり付いた。びくん、と身体が跳ね、呻き声が漏れた。トゥーラは、顔をしかめて初めての痛覚に堪えていた。
私は、芳しい美酒に溺れた。極上の味だった。酔いそうな薫香に包まれながら、無我夢中で熱い血を吸い上げた。喉元に彼女の体温が広がると、逞しく蘇るような気がした。この女を制圧したい、自分だけのものにして跪かせたいとさえ思った。
飲み過ぎたことに気付いた時には、トゥーラは目も虚ろに浅い息をしていた。
ぐったり凭れかかる彼女の身体を慌てて持ち上げ寝床に横たえた。死なせてしまったかもしれない、と肝を潰した。少しだけ、と甘えたのが間違いだった。己の浅はかさを心から恨んだ。
微かな寝息が聞こえた時には、安堵で泣きそうになった。トゥーラは吸血のショックで失神しているようだった。しばらく待つと、薄目を開けて弱々しく笑った。手団扇で扇いだり、見様見真似で手を翳したりする私を垣間見たようだった。
馬鹿な私は、平謝りに謝った。彼女は青白い顔でゆっくり微笑んだ。そして、繰り返し詫びる私の目を見つめて諭すように言った。
「あなたが生きるために必需なものを、持てるものから分けられるのならば差し出すのが私の喜びです。与えられるならば受け、受けたならまた望む他の誰かにご自分の恵みを与えられればいいと思います」
それから、睫毛を伏せてただ、と付け加えた。
「ただ少々辛さを伴いますから、どうか私以外の方には所望なさらないで。私が捧げます。毎日、というわけにはいきませんけれど、あなたの命をつなげるくらいには。必要な頻度はどれくらいでしょう?」
正直に分からない、と答えた。我ながら生態に未知の部分が多過ぎた。がむしゃらに求める日もあれば、光を遮る所さえあれば幾日もごろごろと寝て過ごすこともあった。牙は捕食する時に機械的に伸びた。新鮮な血液にのみ温度を感じることができる。夜目が利く。一級の催眠術の腕がある。
そういった特徴を、しかし彼女には伝えなかった。ほんの一瞬交差しただけの私の存在など覚えていなかろうが、できるだけ以前の自分を演じたかった。ひどい夜型の異食症の男、くらいに見えはしないかと真剣に考えた。それはそれで異常だとは思い至らずに。
「それなら、三日に一度、真夜中に川岸で」
「はい」
願ってもないトゥーラの提案を、私は素直に受けた。




