聖域へ (その二人≪中世≫ 3)
私がトゥーラを見失ったのは、いつの間にか冬眠していたせいだった。目が覚めた時には、間抜けなことに四月ほどが無為に過ぎ去っていた。
暑さ寒さは感じないのに、時季が来れば体は律儀に応じる。トゥーラを訪ねた修道院で人間の血の味を知った。それからしばらく衝動的に襲い続けたのは、厳寒の季節に眠り続けるための仕込みだった。定温を持たない生物は眠って冬を越す。知識としては当たり前だが、変異してから最初の冬だったから、自分の生態についてほとんど分からなかった。
私が眠りに就いたのとトゥーラが修道院に戻ったのは、ちょうど同時期のことだったらしい。眠らないでいれば、乱暴な拘束でトゥーラの手が壊死する前に助け出すことができていたかもしれない。獣の牙を持ち、人心を掌握し、陰の中に紛れ込む私になら。そのための変容だったのではあるまいか。そうでなくては、いくらなんでも虚しすぎる。だが、いくら歯噛みしても全ては後の祭りだった。
一応はこの世に生きているものだから空気を吸うし、摂取した血液から水も栄養も得る。感情を持ち、五感を備えている。皮膚には触覚があるから、そよ風に吹かれれば快いし、物体の質感や湿り具合乾き具合、弾力、重さは皆と変わらず感じ取る。ただ、気温や温度というものは感じることができない。
冬の長い眠りに就く前には、早い小雪がちらつく夜もあったろう。だが、その軽いひとひらが落ちて触れても分からない。ああ冷たい、雪が降ってきた、と続かない。最初の年は、外に出ても渇きを満たすことだけに没頭して、闇夜にちらつく雪片なんて認識する余裕もなかった。満ちれば罪悪感で冷静さを失い、安息の棺に駆け戻った。世界は色彩を欠き、季節の巡りが感じられず、時間の感覚も狂っていった。父と職を失くして以降生ける屍だった私には、随分と前からもう季節を感じるゆとりもなかったが。
温冷の感応については、たった一つの例外がある。口腔から喉に広がる新鮮な血の温もりだ。血液を飲み下す時だけ、私は生きる温度を与えられる。温かみを欲するとしても、それ以外は食べ物とも思えない。尊い命の潮から冷え切った体に与えられる安心感と精神的充足は、決して余人には想像できないだろう。
それなのに、私の体には血の道は通っていないし、生き物の波動は持たない。
寒暑の別がないという状況も、簡単に適応できるものではなかった。存在するはずの場所から切り離されて宇宙空間にいるような、目に入る環境がいつも幻であるかのような、したがって生きながらにして死んでいるような、どうしようもない疎外感を余儀なくされるということだ。自然の営為に一体として混ぜてもらえず、長寿であるのにぽつねんと時の彼方に取り残されていく。
創作物ではクールで万能の超能力者のように描かれるが、実際の吸血鬼などそんなに良いものではない。空を飛んだり、瞬間移動をしたりといった超常的な行為はできない。日向で平和に過ごす楽しみはありえなかったし、日に照らされる絶景も四季の色めきも見つめられなかった。ずっと暗闇の中だ。
何より辛かったのは、生き物の命を己の牙で奪い尽くす時の直接さ---。驚愕の表情、摑んだ指が潰れるほど必死で逃げようとする体の重み、失禁しながらびくびくと痙攣する四肢。当の私が言うのもおかしいが、無残な最期を遂げる苦しみは想像を超える。体内の血液を吸われ果てて死なされるのだから。いただく方も慣れないし、絶対的に恐ろしいことだ。生きるには喰べるしかないが、そのために命を落とすものがあるのだという自然の摂理を、私はこの体になってから本当の意味で知った。自害こそ断念したものの、産まれきて、生かされ、時と共に死んでいくという当たり前の輪廻を、全く必然だとは思わなくなっていた。
一頃は、いつまでも死ねないのではないかという絶望感に溺れるようだった。しかし、老いるというなら老いている。わずかずつでも老けている。普通の人間に流れる人生の時間を、限界以上に引き延ばしてできた薄さが私の業なのではないか、と思う。哺乳類のまま体温を産生しなくなったわけではなく、万年同じ形を留める鉱物の在り方に近く変態したのではないか。不自然に尺を延ばされすぎた生命活動のせいで、岩石の風化を模す奇態に移行したのだ。望むと望まざるとにかかわらず。
とく、とく、と寿命のノックのように秒を刻む心臓の鼓動も、如意自在の駆け巡りに明け暮れる血の周回も、引き延ばされ薄められ、遅すぎて役に立たない、とも考える。拍を取れないほど遅きに失する。あるいは、生命のリズムを奏でていても、検知不可能なほど間延びしすぎて聞こえない。それほど長い。
しかし、永いはずの生なのに、私だけが時の流れに置いてけぼりを食らう。眠らされた冬季の空白にも、私を残して春を得る。恋う人を遠ざける。
冬眠から目覚めた夜、水溜まりに足を取られたのは、空腹の起き抜けでふらついていたせいだ。その水溜まりは、雨の残りではなく春の雪解け水だった。何の因果か、そのおかげでトゥーラの名前を見つけて舞い上がり、教会の地下牢では今度こそ再会の望みは絶たれたと沈み込んだ。半ば自棄になって、冬眠明けの飢えを癒すために血を求めた。
だが、私と彼女は、後に魔女村となるこの森の中、トゥーラが浄化し多くの者たちが落ち延びる聖域で、運命のからくりによって再び出会うことになる。
未明に発見される血抜きの死体が増えるに従って、街は警戒を強めていくようだった。夜通し探し回っても人っ子ひとり見つからなくなった。
寝床としていた納骨堂を後にして、私は生まれ育った街を出た。闇から闇を伝い、山野の動物を捕獲して血を飲みながら、当てもない孤独な夜の旅路を彷徨った。まだ凍る河を渡り、樹海のごとき果てない森林地帯を惰性だけで歩いた。目的地はなかったが、ここを住処と定められるところもなかった。謎の連続殺人鬼を追ってくる者もいなければ、こちらから求めて追い縋るものもなかった。
歯牙には乾いて固まった血がこびり付き、長らく震わせぬ声帯は時折獣の唸りにも似た雑音を発するだけの器官となっていた。もはや生まれ落ちた時のものから完全に変貌してしまった。自分が何者か分からず、ひとまずの指針もない。どこへ行けばいいのか。そもそも何をどうすればいい---。途方に暮れて手首を噛み抜いたが、期待した赤い血は流れなかった。
生きているのか死んでいるのかさえ分からなくなった。ずっとこのままなのかもしれない、と考えてぞっとした。それでも浅ましいことに、手摑みに獲物を捕える時だけ生き生きと集中して、素早く吸い出す鳥獣の温かな血だけが束の間私を癒した。
もう、私は芯から闇の魔物に成り果てようとしていた。
だから、その夜更け、暗みを見通す我が目を信じることができなかった。
灌木の茂みを掻き分けて、目の前に突如視界が開けた。その瞬間、夜の匂いが、変わった。静かなせせらぎが耳をくすぐり、白い月光が川岸に木漏れ日のように柔らかく差し込んでいた。
その春めいた輝きの中に、ちょうど大事に包まれるようにして動くものがあった。
ゆったりと纏う黒き衣。小さな頭を覆う共布のヴェール。いつも脳裏で慈愛の眼差しを送ってくれる、色褪せもしない煌めく黒曜の目。それが、流れるように腕を振る一度きりに邂逅したあの修道女だと気付いた刹那---。
無性の懐かしさに胸が張り裂けんばかりになって、何故かああ、救われた、と思った。最初に見舞われて安心した時の比ではなかった。ただただ心底ほっとして、彼方に忘れていた人心地がついていた。
そして、俄かにかき曇って雨粒が頬に落ちたのだ、と思った。だが、違った。顎に向けて垂れる水滴は、次から次へと勢いよく流れ落ちた。感じられないはずの熱とともに嗚咽が喉元から込み上げてきた。彼女に届いてしまうかもしれない際どい距離だったのに、もう堪えられなかった。膝を着いた。しゃくり上げた。強く口元を押さえながら、どうしようもなく歪んでしまう視界の中に必死に彼女の姿を確かめようとした。
後に思えば、私も、また導かれた。聖域へ。トゥーラのいる方へ。




