生ける屍 (その二人 ≪中世≫ 2)
色鮮やかな玉葱型の塔を複数戴く教会に併設して、彼女の家はあった。
緑多い広大な敷地に陰に紛れるようにして立ち入ると、ちょうど一人の修道士が夜の見回りに歩いてきた。手持ちランプの明かりの中に突然現れた私を察してヒッと一声発してから、修道士は訝しんだ。
「このような時刻に何かご用でしょうか。もしやご家族が危篤ですか」
司祭を呼びに来たのか、と訊いた。
「いや、それが…こちらにトゥーラという修道女は。先日恩を受け、礼を言いたく」
「はぁ、もうトゥーラはおりません。戻ってくるかどうかも分かりかねます。修道院の門はもう閉じておりますので、どうぞお引き取りを」
その時。無愛想な修道士がそう言って、少しばかり腰を屈めた時---得も言われぬ脈打つ赤い血の香を、鼻腔が嗅いだ。
二対の犬歯が、ぬるりと楔状に伸び、尖った。私は訪いに気が先走り、その晩まだ食事を済ませていなかったことを思い出した。
躊躇う間もなく、私の顎は骨張った肩に飛び付いた。止められなかった。
落下したランプが割れる高い響きがした。続いて、ずぶりと牙の刺さる音。肉の弾力。剣先が当たった鎖骨を削り下ろす感触がした。
修道士は、悲鳴さえ上げられず地面に崩れた。腰が抜けて逃げようにも逃げられないようだった。
新鮮な人間の血液は、洗練された葡萄酒のように私を酔わせた。温かかった。そう感じるのは、黒衣の彼女が触れた指先が最後だった。心の飢えすら満たすように、最上の命の温もりが食道を伝い落ちていった。
二口、三口と啜り上げたところで、背後から声が飛んだ。
「どうした、大丈夫か」
別の見回りのようだった。警戒するような速い足音が、近付いてきていた。
べっとりと肩を湿した修道士の、これ以上ないほど見開いた恐怖の眼が、私の面前にあった。
気付けば、私はきつくその視軸を捕らえ、素早く音もなく念じていた。
(立ち上がれ。お前は躓き転んだ。割れたランプで肩を刺したのだ。そう言うがよい)
すると、修道士は忽ち非常の力を抜き、とろんとした目付きの無表情の男となった。
そして、肩を庇いながらゆっくりと立ち上がった。「小石に躓いて…」と言い繕う声を聞き流しながら、私は夜の闇に溶け込み、風のように去った。
飲み足りない、と思った。
闇が支配する世界は、親和して快い空気で私を歓迎するかのようだった。血の匂いを求めて鼻を蠢かせた。人間が至る所で魅惑の匂いを発していた。
---私は、罪を犯し続けた。
住み慣れた家を出、日の当たらない朽ちた納骨堂を孤独な定宿とした。
隠れ住むのに好都合な場所は街には多く見当たらなかったし、そこには御誂え向きの寝床があった。
既にしばらく前に世間から忘れられた存在となっていた私は、空腹に負けて夜中の酔客を探しに出かける時以外は、ひたすら闇に潜伏していた。
深い暗黒に身を潜めていると、ひたひたと侵食され、自分自身が闇と同化したかのように感じられた。一切の光届かぬ真の闇では、夜目の効く私にも自分の指先さえ見えない。
数えられぬほど狂信的に人を襲ってから、腹くちくなって親しい闇に駆け戻り、私は昏々と眠った。
夢を見た。その悪夢を、見続けていた。
いくら人を噛んでも腐敗したどす黒い死水を吸うばかりで、極上の匂いがする女を背後から追い詰めて羽交い締めに襲えば、あの幻の女性であった。いけないと考えながらも渇きに堪えられず牙を突き刺すと、輝きを宿す聖母の身体は、黒目から瞬時に闇に変じて私の臓腑に流れ落ち、私は内部から暗黒に喰われ尽くす。
何度も何度でも、その夢は繰り返した。
トゥーラ、という名を暗がりの辻の触書きに見つけたのは、眠る間に大雨の降ったらしい日の夜のことであった。
血を飲むことに熱中し過ぎた帰り道。あちこちにできていた水溜りに足を取られ体勢を崩した時、常にはない視角から不意にその文字列を認識することとなった。
彼女の名の後には、あの街外れの修道院の名称が記されていた。それは、事もあろうに、偽装した魔女として彼女の捕縛を命じる回勅であった。
実権を握っていると長年囁かれた筆頭宰相の銘が打たれていた。遂に玉座略奪がなされたらしかったが、生ける屍となってから、私には聖女の活躍や血の政権交代の噂を漏れ聞く触れ合いすらなかったのだ。
死病から復活した後、列聖されたトゥーラが先導して、超自然なる力で流行り病を治めたことを、私はその剣呑な行間に読み取った。
私は、狂喜した。トゥーラは生きている。
あの日以来、再訪する口約束など雑事に追われて失念したのだろうか、あるいは彼女の身にも流行り病の厄災が降りかかったのではないか、と悶々と案じていたのだった。
だが、かの修道院を訪れた夜大慌てに逃げ去ってから、私の足はもう決してそこへは向かなかった。生き血を啜り回る闇に堕ちた己を、心根は深く恥じた。もはや邂逅は叶わぬ望みと諦めよう、永遠の憧れを胸にいっそ死のうか、と思い詰めていたのだった。
私の冷え切った体に、あの日優しい光で慈母を包んでいた小さな太陽が宿った。
しかし、触書きは、彼女を可及的速やかに審問に掛けるとも通達していた。
私の中に、殺伐とした警鐘が鳴り響いた。最高権力者が魔女と断定した上で下される裁定など真実であるわけはない。捕われれば、さまざまに責め苛まれて死刑宣告を受けるだろうことは、まさに火を見るよりも明らかだった。
夢の霧を纏う慈母に、拷問を受けさせることなどあってはならない。矢も盾もたまらず駆け出そうとしたが、同時に星の瞬きがいつの間にか薄れていることに気付いた。騒めく心を抑え込んだ私は、再び深奥の闇に戻るより他なかった。
沈まぬ昼を棺の内部でじりじりと過ごし、苔生した石の扉を叩き開けて、日没を待たず飛び出した。西の空に落ちかかった火色の残照が、焼き鏝で舐めるように顔を灼いたが構わず走った。
修道院の門は、二人の修道女によって閉ざされようとしていた。薄暮の木陰に溶けた私の耳に、彼女らの会話が細く伝わってきた。
「ようやく流行り病が落ち着いたと思ったら、今度はシスター・トゥーラが地下牢に幽閉されて…」
「ええ、亡き院長がいらっしゃったらどんなにご心痛でしょう。我が子のようにしていらしたから」
「トゥーラは一体…」
語尾は、耳元に靡く風音とともに遠ざかった。
一目散に教会へ走った。彼女は地下に囚われているのだ。音も荒く扉を開き、階段を駆け降り、血眼になって彼女の姿を探した。
しかし、探し当てたところで地下の古びた牢屋はもぬけの殻であった。衛兵も見張りも教会の者も、それどころか鼠一匹見当たらなかった。
ほんの僅かな時間差が開いていたのだ。その時、トゥーラの脱獄からは、晩冬から早春を跨いで一月ばかりが過ぎようとしていた。ちょうどトゥーラが森に入った頃のことになる。
もし私が、閉門する修道女たちの会話を最後まで聞いていたとしたら、季節の変わり目を迎えて口にする追懐を感じたことだろう。
「ようやく流行り病が落ち着いたと思ったら、今度はシスター・トゥーラが地下牢に幽閉されて…」
「亡き院長がいらっしゃったらどんなにご心痛でしょう。我が子のようにしていらしたから」
「トゥーラは一体どこへ行ってしまったのかしら。雪煙のように消えてしまって。今もどこかで生きているのでしょうか」
「本当にね。もう春が来たというのに…」
そして、効き過ぎる夜目でではなく、もし健全な陽光に照らされる触書きの文字を目にしていたなら。私が罪で生き継ぐ魔物でなかったとしたら---。
捨て置かれて一冬の風雪を被った羊皮紙の劣化を、それに伴い色褪せた墨痕の淡さを、自然なる時間の経過として確実に読み取っていただろう。
そうして、心の支えであった聖母との縁は消えた。
獰猛な食欲に突き動かされ、私はまた多くの罪を犯した。




