隠蔽
夜陰に沈む夜の教会で、事件の背景が説かれようとしていた。後に思い知ることになるのだが、ミスター・ルウの本性を見破るなんて、そんなことは実はわずかな前進だった。魔女村に関わる秘密のほんの序章に過ぎなかったし、明答を得た気になっていたが何も知らなかったに等しい。そして、全てが解明されるにはまだまだ長い時間がかかることもまた、その時のわたしには知る由もなかった。
---どうして調査員の血液を吸い尽くしたのか。牙痕が直接的な証拠として残ってしまうのに。そうすれば、噂に過ぎなかった吸血鬼の存在が現実の下に暴かれてしまう。労力と時間をかけて溶け込んで、掌を返すように存在感を示すということに引っかかりを覚える。知られてしまえば身の安全は脅かされる。ずっと隠れ続けていた方がどのようにも動きやすい。現にここにいるから、どこかへ奔走しようともしなかった。正体を掴まれたら無差別に襲って皆殺しにしてやろう、というものでもなさそうだ。
欲望を満たすためではないと言うなら、その高いリスクは何のためか。
「隠蔽するためだ」
言葉を認識すると同時に、わたしは虚飾なく疑問を呈してしまった。
「隠蔽するため?それはどういう意味です」
不意を突かれたせいで毒気が抜けていた。油断すれば、いつものように気軽に話しかけている。篤実に歴史を語る講義中となんら変わらぬ声色だった。耳を傾けてしまう。こんなに差し迫った状況になっても、ミスター・ルウという人が面影を慕わせる。
「落ち着いて聞いてほしい。すでに適切な処置をした後だから」
適切な処置---調査員の血を吸い取って奈落の底へ投げ落とすことをそう呼んだのか。<トゥーラの聖痕>の底で発見された物言わぬ遺体は、血の気のない恐怖の表情で凝り固まり、全身が骨折してぐしゃぐしゃだった。
「よくそんなことが言えましたね」
「いや、そうじゃないんだ」
だが、お前が犯人だ、と指摘されても揺るがない鷹揚さ以外に、一つだけ気になる点が増えていた。それは、わたしに言い聞かせるような語調で、しかも遠慮がちな気配を伴っているということだ。
「何を言っているんですか。どうしてわたしが落ち着いて聞かなければならないんですか」
世界史の先生の姿をした男が、寸の間目を伏せてからすっと眉をひそめた。いわば、相手の痛みを思いやるような切なげな表情だ。この場に全くそぐわない。無知の子に衝撃的な事実を突き付ける時に大人がよく浮かべるそれを見たことのない人はいないだろう。先生と偽ったそのものは、傷付ける予測を示すように眉根を寄せてわたしをじっと見つめている。
「調査員‘‘ナンバー5’’。彼の血は、遺体の中に一滴たりとも残してはおけなかった。いずれ王国のポリスが来る。少なくとも来る可能性がある。解剖か何かで遺体の血液検査をされたら、亡くなる直前に会っていた人が発覚してしまう恐れがあったんだ。基礎的な検査を行えば、ハックマン教授が死亡前に飲用したものの成分が検出されるだろう。まだ代謝されずに血中に残留していたから」
成分、と聞こえた。ますますわけがわからない。血中に残り、検出されれば会っていた人が露見する?一体どういうことだ。
「絶対に知られてはならなかった」
知られてはならなかった?
「何を、どうして…」
「もし、それがある茶葉からしか抽出されない固有の微量栄養素だと特定されたら、販売ルートは難なく割れてしまっただろう。いくら発注データが暗号化されているとしても、買い手の情報につながる糸は切っておくべきだ。ごく局地的に生産されている種類だったね?原産地の東洋の島国からこの村へ運輸され、ケン・トゥ・ウルスの配達便で、ある薬草魔女の手元へ届けられたと知れたら、それが独自の加工を施し顧客へ贈られたものだと探り当てられたら…」
「え---」
頭をこっぴどく殴られたような気がした。まさか。今耳にしたのは、この手で調合したあの緑茶のことか。ジャポンから取り寄せた生産地限定の茶葉は、ジェネラルカテキンという他種には見られない抗酸化物質を含んでいた。わたしの他には、入手した人はいないようだった。
間違いない。ある薬草魔女とは、誰あろうこのわたしを指している。
「そうなれば、緑茶のティーバッグを保有していた顧客が、学年主任のベテラン教諭であり郷土史家の魔女であると突き止められることは避けられない。ハックマン教授が死亡する直前に会っていたのは、」
「ミセス・ゼムフィーラですね」
結句だけ引き継いだ自分の声は、深すぎる陰の中に今にも消え入りそうだった。風が、轟々と吼えたてている。寒さとは関係なく指先が冷たい。ミセス・ゼムフィーラは、学年で師事する担任。その名を継いだはいいが、何がどうなっているのか理解が全く追いつかない。
「本当…ですか」
「ああ。しかしながら、彼女はただ教授にもてなしの茶を出しただけだ。誰にも責めはないが、場所とタイミングとが致命的だったんだ。多少の混乱は引き起こしてしまったが、あの状況では血を吸い出すしかなかった。教授には気の毒だが、できうる限り最適の措置だったと思う」
それから、キャンドルのつくる大きな明るみにゆっくりと歩み出たミスター・ルウは、真面目な表情でわたしに正対し、眉間の縦皺と目線から推し量るに気遣わしげな機微をまた浮かべて見せた。
この人は、一体何だったのだろう。寄っても寄りきれない。突き放せば近くなる。
「ミス・ウスペンスカヤ。何度も言うけど、落ち着いて聞いてくれ。彼は、心臓病薬を常服していたんだ。それに、あのお茶にはグレープフルーツが含まれていたね?それらが過剰作用して、心臓に負荷をかけた可能性がある」
今度は、背筋を冷たいものが伝い落ちた。グレープフルーツの果皮。それは、わたしがこの手で混ぜたのだ。ミセスへプレゼントする緑茶ベースのブレンドティに酸味と苦味を加えるために。
なんということ---。でも、でも、もう取り返しがつかない。お茶の内容物が、わたしのつくりだしたものが、発作の引き金を引いてしまった?本当の話だとして、わたしこそ全ての原因だったとしたら---。
もちろん他意はない。そのような副作用が起きることは今の今まで知らなかった。魔女村の医薬は自然物だから、ほとんど飲み合わせなどに配慮する必要がない。
「それは、本当ですか」
「実際のところ、分からないと言う方が正しい。確実にグレープフルーツが反応したとも限らないし、何も影響しなくとも発作を起こすほどにまで心臓が衰弱していた可能性もある。たまたまそのタイミングだっただけという…」
害意はなかった。受け取り手に仇なすような悪い作用を引き起こす意図など、まさかあろうはずはない。初顔の外来人が病を抱えていたことを誰が知っていただろうか。偶然が重なってしまった不可抗力の事故には違いない。だが、それでも、ピート・ハックマン教授の心臓はあの夜に止まってしまった。堪えがたい苦みが、口の中に広がっている。
「では、その真相を覆い隠すために…」
わたしの関与を抹消するために、吸血鬼の牙を使ったというのか。わたしとミセス・ゼムフィーラの過誤を、密かに葬り去るために。だって、いくらわたしたちが偶発的な事故だったと反駁しようと、このことが公になってしまえば---。
「それも含めて。ただ、ミセスと会っていたことだけはなんとしても隠しおおせる必要があった」
彼の言うとおりだ。だが、ミスター・ルウとして心強い味方と見定めて手放しに信じるのは早計だ。次から次に生まれる疑問が、出口を求めて殺到している。
「ミセス・ゼムフィーラは、なぜハックマン教授と会っていたんですか?他の人はその場にいなかった、知らなかったということですよね」
「ああ。まず確認しておきたいのは、ミセス・ゼムフィーラがハックマン氏を指導者として敬愛していたということだ。ピート・ハックマンは、王国の首都大学に籍を置く民俗学の教授なんだよ。世界的に辺鄙な地域のフィールドワークを積み重ねて、学会でそれなりの地位を確立しているようだった。
ミセス・ゼムフィーラは、民俗学の専門知識を身につけて魔女村と外との比較研究に着手するために、教授の通信講座を受講していたんだ」
あ、ケン・トゥ・ウルスが配達しているといつか言っていた。「大学からの手紙」とは、受講生に送られてくる配布物のことだったのではないか。
「面識はなかったけど、師事する教授の顔は大学ホームページの顔写真で覚えていたらしい。ワルプルギスの夜に五人組調査員がやって来た時、すぐにその人と気付いたそうだ。直接会えるなんて、と感激したそうだよ。担当官だとしても、魔女村に住む者は外の人間と自由に会う機会はないからね」
その時、祭壇の前で向き合うわたしたちの方へ静かな足音が近づいていた。




