点々と散る
闇雲に一周した図書室には、文字通りねずみ一匹見当たらなかった。ノース・マウンテンの方の巣に大家族が住んでいるという噂の校務員もハロウィン休暇で帰宅している。
アンナは今日、進捗予定に間に合わなかった未処理分を一人で片付けると言っていた。
助けて---。
さまざまな形状の書籍が積み重ねられた袖付き机に、一冊の魔法文庫が開かれたままの状態で置いてある。その脇で見覚えあるスマホが着信を知らせて点滅していた。アンナは、確かにここにいたのだ。
まず室内を探そうと焦りすぎて今まで目に入っていなかったが、背もたれ付きの木の椅子が後ろ向きに倒れている。
スマホの主が正常な状態でこの場にいたとしたら、それらはなんらとりとめのない光景だっただろう。もしくは、救難を求める通信がこの場から発せられてさえいなければ。本の内容をスマホで撮る仕事なのだから、作業中なら着信があってもスルーするし、立ち上がる時に勢いをつけすぎて椅子が転倒することなどよくある。そのままちょっとお手洗いに立った、という状況なら問題はなかった。
だが、机の手前まで歩み寄った瞬間、わたしは悲鳴を押し殺した。---点、点、点々と、赤いものが散っていたのだ。
血だ。今しがたぼとぼとと零れ落ちたのだろう色鮮やかな血痕が、暗転したスマホの画面や本や机を、それらの別なくまだらに染め上げている。新しい紙で指を切っただけというような量ではない。まだ乾ききらずぬらぬらと光沢を放つ赤い点線は、机の端から床へかけて尾を引き、図書室の途中で消えている。
むわっと立ち昇る鉄の匂いが、鼻の奥を刺した。
---この場所で、アンナに何かが起こった。まさか。いや、考えたくない。想像もしたくない。
なのに、まるで、背後からひたひたと忍び寄ったものが、無防備な親友の首元めがけて勢いよく食らいついたかのようではないか。嬉々として、次の若い獲物を首尾よく連れ去ったようにしか見えないではないか。
急を告げなければならない。義母であるダリヤ店長、それに担任のミセス・ゼムフィーラだ。一刻も早く発信しなければと喝を入れるが、画面を押そうとする指先が震えて一向に定まらなかった。
アンナはもっともっと恐ろしい思いをしているはずだ。臆病な自分自身に腹が立ってしかたがない。彼女にもしものことがあったら、一体どうしたらいいんだろう。どうしてもっと早く駆け付けられなかったのか。そもそも真っ先に大人に連絡を入れるべきだったのではないか。なんでわたしはこんなに無力なの。心配で心臓がちぎれそうで、怖くて、腹立たしくて、もう滅茶苦茶だ。
破れかぶれで見に行った近い女子トイレには人影もなかった。特に盗まれるような金目のものもないから、学校はセキュリティが甘い。図書室は村人に開放されているが、今日はハロウィン休暇で閉館だし、用務小屋に住むミスター・ルウも公民館に詰めていて不在だ。昨夜亡くなった‘‘ナンバー5’’の遺体を挟んで、王国からポリスが到着するまで、村側と調査員たちとの橋渡し役あるいは仲裁役を果たしているらしかった。
「アンナ、アンナ…」
何度呼んできたかわからない親しい名前を発する自分自身の声が、どうしようもなく図書の紙に吸い取られていく。
夏の太陽を一身に浴びてすっくと立ち上がるヒマワリのような、明るい笑顔に色がつかない。生まれてからどれくらいの時間を傍で過ごしてくれただろう。傷付いて所在の分からない親友が、その不在によってむしろ圧倒的な存在感を示す。
息を弾ませて図書室に駆け込んできたダリヤ店長は、大量の血痕を見るなり青ざめて腰を抜かせてしまった。
「まさか、き、吸…血鬼に…」
それきり、もう一つも言葉が形にならないようだった。うずくまって荒い呼吸を繰り返している。これは、過呼吸だ。息も絶え絶えのアンナの継母は、いくら必死に吸おうとしても空気の得られない地獄の苦しみに涙を垂れ流している。有用なアロマオイルも持ち合わせておらず、手近に鎮静作用を持つ薬草もなく、未熟なわたしは右往左往するしかなかった。香り立つハーブの写真集は容易に所在がわからないだろう。
せめてもの慰めに背中を摩っていると、
「アンナがいないんだって?」
救いのない図書室に、ふと頼りがいのあるダミ声が響いた。昨夜のハックマンさんの事件後ずっと公民館に詰めているはずのスイ団長だった。事情を知って大慌てでやって来たようだ。ヴェロニカ副団長やピコリーナ先生に後は任せてきたのだろう。
「どうした、ダリヤ」
急性症状を瞬時に見てとった団長は、イメージを裏切る俊敏な身のこなしで喉に手を触れ、素早く鎮静の気を送った。
余裕があるのに無駄のない動きだった。普段は量感のあるおばさん然としているが、この人も手練れの治癒魔女だということを思い知る。癒しの力は強い。切ないような乱れた呼吸音が徐々に治まって、気付いた時にはもうほとんど通常のリズムを取り戻していた。
「もう大丈夫だ。ここで休んどきな、ダリヤ。さあ、アンナを探そうかい」
これが我が村の代表者なのだ。軽々と事態を鎮め、冷静に次の号令を出す。スイ団長の年齢なりの声は深く、頼りがいが溢れていた。生来の姉御肌と高い経験値とによって、この人に委ねれば万事うまくいくと思わせる安心感を、スイ・ハウルという魔女は生む。きっともっとひどい状況であってもそれは変わらないだろう。
だが、その後馳せ参じたミセス・ゼムフィーラとともに学校中をくまなく捜したが、とうとうその日アンナの姿は見つからなかった。
夜が明けても押しつぶされるような不安は解消しなかった。真っ赤な血を流した親友がどこにもいない。万が一<トゥーラの聖痕>の底に張り付いていた骨の砕けたハックマンのような姿で見つかってしまったら---。
昨夜は交感神経ばかりが勝つ浅い眠りに嫌な夢を見続けた。陰に覆われたじゅくじゅくしたものに、鋭い牙を突き立てられて首元から血を流すアンナ。放っておけば死んでしまう。近づこうともがくのに、走っても走ってもその場から進めない。やっとの思いで駆け寄れば、抱き起こした親友は自分の顔をしている。
夢から覚めても動悸が止まらなかった。調査員の変死のためにすでに衝撃は大きい。アンナが行方不明になったことは、ハロウィン休暇の大混乱を防ぐために団長から固く口止めされている。ダリヤ店長の過呼吸は治まっていたが、アンナパパも眠れぬ夜を過ごしたことだろう。休暇にもかかわらず、<トゥーラの聖痕>事件後のうち沈んだ空気とさらに強さを増した風のせいで、常にない重苦しさに村は閉塞していた。森の樹々に叩きつけるように、吹き過ぎる重い風が鳴っている。
習慣的に開いた ‘‘WITCH’’の掲示板には、感想や予測交じりの最新情報がリアルタイムで投稿されていた。王国から遣わされるはずのポリスは、‘‘チームファイブ’’が政府に通報したにもかかわらず初動が遅れているようだった。きっと前例のない捜査だから、情報の開示、伝達や指揮系統がもたついているのだろう。【公表】されていない幻の村に果たして来るのかどうかも定かではなさそうだ。
せめて捜せるところは捜そうと、鼻で向かい風を突っ切るイノを連れて、農場や駅、天文エリア、治癒エリアと回ってみたが何の展開も望めなかった。途中で行き合ったアンナパパとミセス・ゼムフィーラとも、悄然として進展のないことを確かめ合うしかなかった。ダリヤ店長は、昨日帰宅した後で心労のあまり寝込んでしまったという。
アンナの捜索は、密かに小人に依頼されたらしい。協力要請を受けて隊列を組んだ各家庭の小人たちが、ハロウィンかぼちゃの隙間を縫って走り回っている。




