四聖女 ≪中世≫
トゥーラが定期的に寝床を抜け出すことに、いつ頃から気付いていたのか定かではない。
隣り合う寝床の主は、夜更けにふらりと起き上がっては洞口を出て、不浄用に掘った穴とは反対の方へ歩いていくようだった。こんな夜中にも天候の儀式に行くのかしら、と最初は何気なく見送っていたが、どうやらその翌朝に限ってトゥーラの体調は崩れるらしい。そう悟ってしまえば放置もできなかった。
だが、表面上は平穏な生活の裏で、ローザにも思いが溢れてしまう時はある。一人になりたいのかもしれないとは思うものの、いくら超人の彼女でも夜中の森で一人歩きは危険だ。物思いに耽っていたら注意が疎かになることもあるだろう。ぞんざいに口を出すより、無理をし過ぎていないか、邪魔しない程度に一晩だけ見守っていようか。いつもすぐに戻ってくるようだから、大丈夫そうならそっとしておけばいい。心配が高じて、ある夜ローザは様子見に後を尾けることになった。
根雪は闇にぼんやりと浮かぶようだったが、季節外れの暖かさに巻き付ける毛布は必要ないほどだった。
買い出しで得た中古の外套を羽織ったトゥーラは、常と変わらずしっかりとした足取りで樹々の間を歩いた。あてもなくただ歩くだけの散策というより、目的を持ってある場所へ向かうような進み方だった。
川岸に着いた。暖かければ水浴びに来る川だ。水中に入るでもなく、かといって手を振り水を浄化するわけでもなく、トゥーラはそこにじっと佇んでいた。
夜の水辺には動物が集まる。狼などと鉢合わせしてしまったら厄介だが大丈夫だろうか、とローザは気にかけた。だが、当の本人はむしろ安心しきったような緩んだ雰囲気だった。夜の森の精気を感じているのか、瀬音を聞きながら川岸で安らぐための時間なのか。いずれにせよ夜行性の猛獣たちも全く現れなかったし、トゥーラにとって不可欠の時間なのだということが同性の勘で知れた。皆の支柱として立つ彼女にもやり切れない個人的な想念があるだろう、弱音を吐く代わりに束の間静かに羽を伸ばしてバランスを取ろうとしているのだ、とローザは理解した。危険を冒すようなことではなかったのだし、もうそろそろ先に帰ろう、と踵を浮かせたその刹那---。
ローザの目は、陰を映した。近くの木陰が分離して動きだしたのかと見違った。
まず錯覚を疑い、次にそれを凝視した。
冬でもせせらぐ川に沿って、意志を持つ個体が律動を刻んでいる。夜の森の中でも最も濃い陰が、トゥーラに向けて一歩ずつ近付いていた。
動物ではなかった。おそらく暗色の上衣で包まれた肩が、歩行の拍子に合わせて揺れた。縦に長いシルエットが縁取るのは人間の輪郭で---それは見知らぬ一人の男だった。
ローザには、信じられなかった。こんなに深い森の奥に自分たち以外の人がいるとは想像さえしたことがなかった。つまり、同志であるはずのトゥーラがその陰の者の存在を隠匿していたということだ。この日この場で偶然出くわしたのではないことは、出迎えるようなトゥーラの慣れた様子でわかった。
その時ローザが不可解に感じ取ったのは、家族のように暮らす友に見たことのない華やいだ風情だった。雲間から差した月明かりが彼女を照らし出すと、微笑みかける柔らかい情緒すら現実の油彩画として立体的に描かれるのだった。
トゥーラの知り人ならば一言も触れなかった理由がわからなかったし、こうして内密に待ち合わせる現場を目撃して、ローザは驚き呆れていた。何故ずっと隠していたのかと思案した。しかし、答えはその次の瞬間に悟った。
---何かが、月光に煌めいた。
ローザは、見開いた目を逸らすことさえできなかった。
それから、戦慄に身を強張らせた。手先の震えを止められなかった。なぜなら、ぎらりと光ったものが、確かに男の口から伸びた獣の牙だったからだ。
トゥーラは逃げ出すどころか抵抗もせずに身を任せ、そして頭巾を捲り上げた細い首に噛み付かれた。青褪めたローザがおろおろと心乱れているうちに、トゥーラはあられもなく脱力してしまった。やがて目を開き口を動かすようだったが、距離を置いた木の間には会話の破片は届かなかった。
翌朝、洞窟には緊張感が張り詰めていた。
ローザの珍しく荒げた声でオトは目覚めた。どうやらトゥーラを問い質しているようだった。
「いつからなの!あんな風に噛まれて血を…自分から寄って行くだなんて!もうやめなさい、あんな危険なことは!今もほら、ふらついているじゃない」
「トゥーラ、何かに噛まれて血を吸われているの?」
オトが施術する時にも血が足りないなと感じることはあったが、菜食に偏るせいで皆似たようなものだったので特に気には留めなかった。
ベアトリスも洞窟の緊迫感に戸惑いを隠せないようだった。激昂するローザは、ほとんど泣きそうな調子だった。
「脅されているの?それとも変な暗示でもかけられてるのかしら。獲物にされてる自覚がないんでしょう!吸血鬼なんて悪魔なのよ!私の国では人を幻惑して襲うと言われてる!」
非難よりも何よりも大事な仲間の身をいたく案じているのだ、とそれぞれが胸で感じ取っていた。
「いいえ、そのようなことは断じて。皆に隠していたことは謝ります。けれど、自分で決めたことです」
トゥーラからは、それ以上の弁解は聞かれずじまいだった。理解を求めることもなく、ただじっと考えあぐねるような表情で口を結んでいる。
「お願いよ、危険なことだけはよしてちょうだい。みんなのためにも」
後生だから、と遂に泣き伏すローザに、トゥーラは折れた。
「一番に身体のことを考えます」
春が来た。透明な雪解け水が豊かに川へ注ぎ込む。黄色い蕾や早緑の芽が、待望の季節の訪れを鮮やかに告げていた。
寒気が緩むと、ベアトリスとオトは、先生と生徒として夜空を生きた教材に星座の授業を始めた。反対に、トゥーラは夜の密会に行かなくなった。
しかし、以前から懸念されていた彼女の調子は悪化の一途をたどることになる。
起き抜けからふらつくようなことは徐々に少なくなったが、不眠や感情の起伏に悩まされるようになり、食欲不振が進行して、森の恵みをいただいても嘔吐してしまうようになった。ほとんど食物を口にせず、日の高い内も横になることが多いトゥーラの姿に心を痛めたローザは、新鮮な早春の薬草を摘み、腕に縒りをかけて丸薬を作った。
全てはどうしようもなく手遅れだったのかもしれない、と悔いる思いは、心の内に忍ばせておいた。




