魔女とは何 (ベアトリス ≪中世≫ 3)
先祖代々の土地と館、そして爵位ある家名を守っていくことが父の至上命題なのです。苦い決断も立場上やむを得ないと理解しているつもりです。私も潔く運命を受け入れよう、ただ空を見上げることまでは禁じられまい、未知の農家の暮らしにも細やかな楽しみを見出して夫と穏やかに過ごしていこう、と覚悟を決めたのです。
けれど---婚約のあいさつに見えた未来の夫は、わたくしより二十五も年上の男性でした。父と大差ありません。お世辞にも若く見えるとは言えない独特の雰囲気がありました。
こんな男と生活の全てを共にしなければならないのか---。わたくしは、必死の自制で声にこそ出しませんでしたが、正直に言って心の底から気持ちが悪い、と思いました。仮にも大事なお客様の眼前で、恥も外聞もなく啼泣しました。流石のお父様も不憫に感じて二の足を踏まれるだろう、と甘い期待を抱いたのも事実です。
でも、父は冷酷にわたくしを叱りつけました。『いい加減に泣き止んでご無礼を謝罪しなさい。お前が長くお世話になる方だ』と言って。
その時です。わたくしは、世界中に誰一人味方がいないという絶望感に叩きのめされました。父と母、家族、親類、婚約者だった男の子、予言を代読したことで星の恩寵を受けたはずの全ての人たち。良かれと信じてしてきた行いを全否定され、人格すら尊重されずに見捨てられようとしている自分。厄介者としてもらっていただくだなんて---。魔女とは何ですか。害をなすどころか、利他に徹してきたではないですか。こうして拒まれるのなら、なぜ神はわたくしに夜空に輝く星の声を聞かせ給うたのでしょう。無意味な迷惑だと言うのなら、そもそもどうしてわたくしはこの世に生まれてきたというの。
何より望む慕わしい星の姿も、昼間の圧倒的な熱源に掻き消され、同じ空なのに輪郭さえも掴めませんでした。ただのっぺりと薄青い空洞に片雲が流れているだけ。饒舌に響き合う妙なる旋律もそっと大事に伝えられる言の葉も、嘘のように静まり返って雲隠れしていました。
わたくしは、理不尽に対する反発と敗北感に、自由であるはずの精神を縛られました。そして---マグマのように噴き上がる怒りで我を忘れたのです。
いつも通りの目の高さで場を捉えるはずの自分と、どこか他人事のように高みから見下ろす霊魂とが分裂してしまったような感覚でした。いえ、そのような内的感覚すら感じることもできていなかったのかもしれません。
気付いた時には、暖炉に飾ってあったはずの家宝のナイフを両手で握り締めていたのです。それから自分の目が映した光景を、今でも現実のことだったとは信じることができません。
宝飾の鞘が取り払われた鋭利な白刃が、父の胸に突き立っていました。瑞祥の図柄にこだわった毛足の長い絨毯の上で、多量の血を吐いて父は事切れました。
恐ろしいことをしてしまった、許されない罪を血に塗れたこの手が犯したのだ、と頭では分かっているのです。けれど、こんなことを口にすることすら罪深いですが、とにかく未だに全く現実感がないのです。
貴族らしい冷淡さと凛々しさを兼ね備えたわたくしの父。先立つ感情よりも責任を重んじる、けれどその実誰より深い愛の眼差しを皆に注いでいた人---。わたくしの我儘な憤りが、父の生を奪いました」
意志の力で言葉を紡ぎ出していたベアトリスは、嘆息を漏らすことすら自身に許さないでいるようだった。唇を開け閉めしながらも生物的な動きを止めてしまったかのように、あるいは疲れ切った老婆のごとき空虚さで、がらんどうの視線を焚き火に落としている。
ああ、この方は何という重い十字架を背負ったことだろう。潰されるほどに重い業に責められて、脆い精神状態で遠い道程をここまで逃れてきたのだ、とトゥーラは思っていた。重罪の苦渋に堪えかねて目を閉ざしたのだと得心した。
「怒りで理性を失った時に心に魔が差しましたね。怒りという負の感情と同調して、突発的に罪を犯すこともあるのです。本来の意志と裏腹であっても」
「いいえ、仮に一時的に魔に魅入られたとしても、このわたくしが、我が父を手にかけたのです。何があろうと怒りなど持つべきではなかった。抜け抜けと魔を引き寄せるような隙を自ら与えた有責は、わたくし自身にしかありません」
ベアトリスの真実の一語一語は、皆の胸に突き刺さるようだった。当人には尚更のこと。形を取った言葉のナイフがベアトリスの胸を突いて流血させる。しかし、むしろ彼女は自ら吐き出す言葉で事実を知らしめることで、過ちを犯した自分自身を責め苛んでいる、とローザは思った。
「頭に血が上って心臓が不整脈を打ち続け、吸おうとしても息が吸えない苦しさに目からは涙が溢れました。知らず絶叫していた私を宥めたのは、同席していた母ではなく、紹介の労を取ってくださった大伯父夫妻でもなく、私が心中ですげなく拒絶した見合い相手の男性でした。
唯一平常心を保っていた彼が、「後は任せて、隠れなさい。ここを離れた方がいい」と私の肩にそっと手を置いたのです。狂気に駆られていたわたくしは、やっと現実に戻りました。
そして、遠くに去りたい、とそれだけを呪文のように必死に願いました。手に貼り付いたナイフを引き剥がし、トランクに放り込みました。その方をお連れして戻った馬車を、急ぎ再び用意させ飛び乗って。訝しむ御者には袖の下を握らせ、国外に出ることをのみ指示しました。
血の海に横たわる変わり果てた父の姿を、一度たりとも振り向くことができませんでした。恐ろしすぎる罪科を意識から閉め出すように、添うことにはならなかった夫のことを考えました。
魔女と噂される娘を娶ろうとするほどの度量と、きつい農作業で鍛えられた精神力とがその方には備わっていました。愚かにもたかが一瞥で人を拒んだ浅はかさに恥じ入りました。わたくしは、若さに任せ思い上がった世間知らずの愚か者です。人生において本当に大事なものは、如何なる状況でも相手を思い遣る心なのだと教えられました。私のような許されざる罪人には勿体ない優しさです。
輸送船で海を越え、馬車を乗り継ぎ、隣国の王国に入ってからは単身徒歩で進みました。この森に近付いた時には、ここがそうだと分かりました。ああ、やっと着いた、ここまで来れば大丈夫だ、と思った途端、思い詰めていた力が抜けてしまったようでした。暗い夜中の森でも、見上げれば星座の音楽会が催されています。夜が来る度に生きた星図を読んで、示される方向に従ったの。まるで進むべき道筋が、星彩に照らされて浮かび上がるようでした」
再び、貴族の名残の襤褸を纏った娘は、岩の穹窿を透かして星影を仰いだ。
「貴女は自らの意思でここへ来ました。その事実が意味するところが、生き抜く決断であり、償う覚悟であるのだと思います。慰めることも肩代わりすることもできません。ただ貴女という存在を受け容れることだけが、この森と私たちにできること。この先どうするかは貴女次第です、ベアトリス」
トゥーラの声調に責める響きはなかった。かといって、不必要に甘やかす意図も皆無だった。森閑とした聖域で互助共生の一角をなし、終生の償い方を模索する道を選んだのは、ベアトリスだ。
彼女の目は、明るくなった後見えなくなり、また悪化しては良くなるということを繰り返した。暗く沈み込んで口も利けぬ鬱状態から、理路整然と落ち着いて話す快復期を不安定に往復しながら。




