血塗られた過去
わたしは気絶して崩れ落ちていたらしい。ぼんやりした頭と上体を引き起こす。死んだ、そうでなければ死にかけている、と実感したが、倒れた時に打ちつけた腰の痛みを感じるばかりで、今しがた致命傷を負っていたはずの体にはかすり傷一つなかった。手のひらには血が通い、頰に触れれば汗ばんだ自分の素肌。つむじから足の先まで満足だ。
根の抜けた放心を連れ戻すかのように、小鳥の囀りが耳をくすぐった。
村有文書の囲いにはバネ開きの粗末な板戸が一枚。腿ほどの高さしかないから、元来た方を見通せる。開いた窓の隙間から、春風が白いカーテンを押している。目に入るのは、静かで平穏無事な図書室そのものだ。小火の端くれも残り香もない。いつも通りの図書の森。林立する書棚の向こう側では、アンナと小間ねずみが黙々と本を繰っているだろう。
誰も飛んでこないということは、おそらくわたしにしか感じられない現象だったのだ。幻覚だった。あんなに現実感があったにもかかわらず。速すぎる動悸が内側から胸郭を殴打しているというのに。
手に持っていたはずの古文書は、固く閉じて開架に戻っている。伸ばしかけた指を、冷めやらぬ激痛が振り払う。風化した『聖トゥーラの伝承』の箔押し文字。もう二度と触れられそうになかった。動悸は止まることを知らず、吹き出た脂汗でローブが背中に貼り付いている。
荒い息を静めようと深呼吸を試みる。一回、二回。
そして、もう一度空気を吸いかけたその瞬間、背筋が怖気をふるった。惰性で涙を流させられてはいたが、生きたまま焼かれるリアルな痛苦にではない。ある光景がフラッシュバックしたのだ。
猛り狂う焔とは正反対に、胸の奥を凍て付かせる恐怖。心臓が氷で掴まれるような絶望感。
わたしは生と死の狭間、薄れゆく意識の中で見た。大衆の波間でわたしを睨み据える一人の女を。あれは、希望の一切を拒む闇の寵児だ。きつく細めるのは、冷酷な色に沈み、底冷えのするような漆黒の目。眼球のほとんどを闇が占めている。この世のものとは思えないおぞましい色をしていた。悪魔の目。憎しみ、とは、あの目玉の中に凝った底無しの穴のような怨念をいうのだ。
もしも見下げた悪女をこそ魔女と呼ぶならば、すなわち彼女がそうだったろう。魔女と称する人間が、悪魔の手先の禍いであるなら、狩られようと文句は言えまい。その女なら、火に焼べられてもしかたない。放っておけば救いようのない悪行を犯す。
睨め付ける目と同じ色の修道服を身に纏ったその魔女は、炎の中でひた喘ぐわたしに向けて、痩せ衰えた手をまさに振り上げるところだった。まだまだ苦しみ足りないとばかりに、相当な遺恨を込めた呪いを迸らせようとして。
修道服の黒目の魔女。共通する要素がどことなくシスター・ソラの面影を想起させた。だが、彼女とは明らかに違う。本質の部分が全く異なっている。興奮に沸き立つ群衆の身なりは、遠い昔の洋装だった。
一撃の雷を森の境に下した魔女、中世、修道女だった、黒い目の聖女。それは---トゥーラだ。
誰のことなのか、は自明の理だった。わたしが見つけ出したのは、『トゥーラの伝承』。いまだ震え止まない罵声の残響が、鼓膜に取り憑き暴れ狂っている。初代の天候魔女、聖トゥーラの伝承を記すはずの文献は、不快な嗄れ聲でこう告げた。
[邪悪なるトゥーラの憤怒が宿怨の呪いとして魔女らの森に蘇るだろう]---と。
青息吐息のわたしを見咎めたアンナに、細々と窮状を訴えた。ひとしきり心配した後、「図書室ではそういうことはよくあるからね」と慰められ、「今日はもう帰った方がいいよ。報告しとくから」と言う気遣いを受けて、来たばかりの登校道を引き返すことにした。雲の雷の、とかトゥーラがいて、などの要領を得ない断片では出来事をきっちり言い表せた自信はないが、明朗なアンナに任せておけば、事後はうまく取り計らってくれる。
恐ろしすぎて言葉にならない、という面もあった。わたしには動揺すると口を閉ざす気質がある。でも、きっと神経質すぎる。気休めにとりなした印象もあったが、話を聞いたアンナが跳び上がらなかったということは、瞬時に通報するような件でもないのだ。
あまりの悲壮感を見かねた親友は、気を利かせて「忘れちゃいな」と優しく背中を叩いてくれた。元気付けようと覗き込むヒマワリの笑顔に心が安堵と平静を思い出した。抱っこしたイノに顔を埋めて、ハーブティを飲み、昼間から寝て忘れてしまおう。戦慄の記憶なんて手放してしまいたい。
---炙り殺された、というのは事実だ。
しかし、その後もわたしは『トゥーラの伝承』が叩きつけた予言めいた警告について考え続けた。というより、幻覚によるショックが何度もぶり返して、意識の外へ締め出すのに失敗したという方が近い。
わたしたちは概して、科学よりも魔法的作用を重く見る。論理立てて解けるものではないが、黙殺しきれるものでもない。生じた物事には意味がある。一撃の激しい雷が落とされた後、幻象の昔日の中で、処刑台に磔にされて燃されたのだ。伝記本が投影した仮想現実の、何故、という意図は知る由もない。ないのではあるが。
雷、なのだ。真偽のほどは定かではない。だが、魔女村の境界に伸びる、森を分かちて抉り取られた<トゥーラの聖痕>は、聖トゥーラが起こした落雷によって大地が割れた名残だといわれている。
そして、あれは魔女狩りだった。その狂気は、人々をして異常な精神状態に至らしめていた。
何よりも、暗い喜びに浸る群衆に混じって異様な存在感を放っていたあの女性。悪逆の魔女という険悪な呼称で、古い文書は主題の彼女を指した。トゥーラは中世に実在した謎多き女性だ。信仰の徒で、れっきとした始祖であり、村を守護する四聖女の筆頭でもある。天候魔女だったが、その正体は吸血鬼であったという荒唐無稽な伝説も併せ持つ。
『魔女村史』で学んだ史実としては、聖トゥーラの最期については疑いの余地がない。この森に逃げ込んだにもかかわらず、経緯不明にも、彼女だけは火刑により王国首都において没した。魔女狩りに関する一節が、王国に伝わる歴史書にはっきりと記されているのだ。
魔女トゥーラの項として、『不祥なる予言にて我が王国を呪った悪逆の魔女は、轟々と燃え立つ火中の柱に括り付けられながらも小さな悲鳴一つ上げずに涼しい顔をしていた』という旨の遺文がある。トゥーラという存在を同時代に書き綴った史料は、その一文に限られている。
不吉な予言。悪逆の魔女。身を焦がす灼熱の炎が、現実のような記憶の中で燃え盛る。涼しい顔などできるはずがない。観衆を喜ばせる苦悶の表情など毛ほども見せてなるものかと、焼かれる黒目をかき開き、知られざる初代天候魔女の気魄を恃みとして、堪え難きを堪え抜いたのかもしれない。
自分自身を苦境の極みに殺しおおせた憎々しい焔にわたしを引きずり込んだのは、間違いなく呪いの手を掲げていたあの女性だ。味わされた今際の際の生き地獄を、お前にも見せてくれよう、やれ思う存分楽しませてやろうか、と。
だけど、魔女らの森、つまり魔女村に憤怒を蘇らせるほど怨んでいる、とは一体どういうことなのだろう。呪う、などとはおよそ正気の沙汰ではない。無念の死を遂げたことで根強い怨みを遺したのだろうか。死後五百年を経てもまだ復讐の遺恨が消えぬほど。
でも、おかしい。魔女狩りの処刑を行ったのはあくまでも王国のはずなのに、なぜ村に憤怒の矛先を向けるのだろう。王国を呪うというのならば道理だけれど。文言にも述べられているではないか。不祥なる予言にて我が王国を呪った、と。敵味方の別もない、見境なく呪ってやろうと常夜の国で手ぐすね引いているというのだろうか。
いや、待て。トゥーラを除く他の三人は生き延びたのだ。聖ローザや聖オト、聖ベアトリス。魔女狩りから逃げてこられたとはいってもそれぞれに追い詰められていたはずだ。立場上は罪深い逃亡者だったのだから。
四聖女には実証されない内幕も多い。揺籃期のこと、この森はまだ徹底して遮断された環境ではなかった可能性もある。そこへ追手がかかったとも考えられる。駆け引き、根回し、裏取引…極限の状況で自分たちの身を守ったとしても無理はない。仲間のうちの一人を選んで差し出すことで。それで許されるものなのか、全滅を免れた理由は分からないけれど。
今まで四聖女には純朴なイメージしかなかったけれど、もしかして<最初の四人>の間には血生臭い裏切りの惨劇が繰り広げられたのだろうか。<胎動する洞窟>は、安心の避難所ではなく命をかけた諍いの温床だった…?
古文書は、こともあろうに村の守護聖女として崇められるトゥーラを邪悪な魔女、と言い放ったのだ。<トゥーラの聖痕>は、聖ローザ、聖オト、聖ベアトリスの三人と殺し合った爪痕なのかもしれない、という推測が脳裏をよぎる。
背筋がざわついている。生きたまま火に炙られて死んだトゥーラ。彼女一人だけが突き出された。今日に残る吸血鬼の汚名が、魔女の誹りで飽き足らず、トゥーラを身代わりの犠牲とするために巧みに利用された濡れ衣だとしたら---。生贄、という剣呑な言葉が頭に浮かんだ。そうであるなら、性根から憎んだ理由には合点がいく。自分一人を餌食にして生き残った三女性たち。末裔として森に生き続けていく子々孫々に至るまで。
悪魔と同義の「魔女」はどちらか。
現代のわたしたちが安穏と暮らす魔女村の草創期は、聖女たちの悲劇によって複雑に血塗られているのかもしれない。教会で観た四聖女の立像が、奇妙に歪んで眼前を塞いだ。




