魔女狩り
そろそろレポートを書き出さないと間に合わないので、早起きしてバイトするアンナに付いて学校の図書室に行くことにした。聖トゥーラに関する例の文献について訊ねたかったが、ミセス・ゼムフィーラを捕まえる機会がなく、咳止めシロップは教授室の卓上に届けておいたので、お代は速やかに送金されてきている。
二万の蔵書を誇る図書室では、小間ねずみが袖付き机の天板を仕事場にせかせかと働いていた。細かい動きで一枚ずつ本のページをめくっては、スマホで撮影しまためくるという反復運動をしているようだ。積載された古めかしい魔法書には重みがあって、一冊一冊書棚から取り出して背中に負うてくるのであろう重労働に同情していると、小さなねずみながら分かりやすく冷たい横目でこちらを振り向き、じゅ、と鳴いた。アンナが少し遅れたんだなと気付く。
「うわぁ、小間ねずみ怒ってる。ヤバい。時給引かれそう。なんか威嚇してない?あんな小さい前歯でも鋭利な凶器に見えてくるよ」
ひそひそと囁いたアンナは、真面目な労働意欲を示すべくさっさと持ち場に着いた。小間ねずみと並んでスマホ片手に本の山に取り掛かると、玄人の手捌きで次々とページを繰っていく。「がんばってね」「そっちもね」と応援し合って、わたしも所用を済ませるべく検索にかかる。検索というより脚を使った捜索である。
本棚には、色も形状もさまざまな本が所狭しと詰め置かれている。小間ねずみ一匹では管理が行き届かないのだろう。向きを揃えて整然と並べるという法はなく、整理されない雑貨屋のように、書籍ベースのあれやこれやがまぜこぜに積み重ねられているといった具合だ。用務小屋然り、図書室もまた。小間ねずみの守備範囲になると荒れる、と言ってしまえば気を悪くするだろうか。図書室一つ、小屋一軒が、大きな巣であるとも言えるかもしれない。ジャンルの分類も曖昧ではあるものの、貸し出す前提、置かれた物の共通項があるだけこちらの方がいくらもマシではある。
立方体の各面に1~6の目が彫り込まれた用途不明のサイコロ本や、浮かび上がるアニメキャラが解説する白魔術と魔法陣の専門誌、入門書(『天文魔女による天文魔女のための天体観測ガイド』)、辞典(『あなたにもできるかんたん薬草学辞典』)、治癒魔女により寄贈されたらしい自費出版エッセイ(『クロギツネと私の百日間~森でクロコを見つけてから~』)、細く煙が立っている高温の漫画本、掲載されたハーブの画像を擦ると香りが漂う写真集などなど。一目二千冊である。バラエティ豊かで飽きないのがウリだが、所望する一冊に巡り合うのは至難。集中力を高めるためにレモングラスのページを擦る。
多彩な本の森に迷い込んだ気分だったが、初々しいハーブの香りに補佐され、奥まったところに「村有文書 室内閲覧のみ」と大書した板囲いの空間を見つけ出した。だいたいの配置は知っていたが、レポートの参考文献に古い原書を用いたことはなく、来る時によってこの図書室は見え方を変える-多様な本の置き場がころころ変わっているため、決まった目印で当たりを付けられない-ので、正直よくわからなかったのだ。
今もなお、昔ならなおさら、重要なことは筆を執るより口伝えに伝える傾向は強い。伝記を含めた古文書の書架は一台だけだった。
黴臭い紙の匂いが籠っている。だが、無秩序な他の棚と違って、同系色で似たような装丁の古文書は、配架されて以降手に取られることがなかったかのように、傷んだ革の背表紙をぴたりと接して隙間なく並べられている。これらの村有史料は、歴史科であるミセス・ゼムフィーラが厳密に保管しているのだろう。
その本は、ちょうど目の位置、等しく退色した無個性の陳列の中ほどにあった。埃っぽい背表紙をなぞると『聖トゥーラの伝承』とうっすら読める。同じ段には、古色を帯びた書物の中に、読み取れるほどはっきりとした題字を残したものはなかった。シスター・ソラが教えてくれたのは、主題からしてこれだろうかと目星を付け、早速抜き出しにかかった。それでなくても、聖トゥーラに関する論述の足しになるなら構わない。どちらにせよ、克明な記録ではなく推測まじりの手記ではある。
やや手に余る重さの革装本を開くと、年月を重ねシミの浮いた西洋紙に、多少の解読を必要とする手書きの古語がびっしり書き連ねてある、と思いきや、どういうわけか突如としてわたしの目の前は真っ暗になった。
小口に無造作に指を入れたはずだ。ざらざらとした埃のような感触を覚えている。それから二つに割った。
その見開き紙面から、予想だにせぬ黒い雲が文字通りもうもうと湧き上がっているのだ。熱くも冷たくもない。燻されて煤けもしない。しかし、それは大火事の毒々しい黒煙のごとく立ち昇って、たちまち頭上に渦を巻いた。茫然と立ち尽くすうち、重い暗雲は悪意さえ感じさせる裂帛音を伴いだしている。電気的な光の筋を走らせ、唸りながらエネルギーを溜め込んでいる。
雷だ。心音だけが激しくなる。逃げなければ。でも、避難路はどっちだったか。足は一歩たりとも動かない。図書室の床板に足裏から直根が生えたかのように。
そして。
光った。刹那、辺り一面が眩しいほど明るい雷光を照り浴びる。
網膜に射し込んだ稲妻が脳髄まで貫き、縫い止められていた足がよろけた。痛みで頭が割れそうになり、まさに倒れかけたその瞬間、元いた世界は跡形なく砕かれ果てた。
---爆音だった。いや、音、とすら感じなかった。飽和した雷雲が、凶猛な放電となって、三次元を引き裂く一発の厳しい霹靂を目の前に落としたのだ。
内耳が叩き潰されたのかと思った。水平は失われて天地左右が逆を向く。感覚を、掴めない。とっさに腰を屈めたはず、手は耳にやったはずだった。横になっているのか、浮遊しているのか、それとも体ごとなくなってしまったのか。空気の流れも、匂いもない。もう何も見えず、何も聞こえなくなった。
わたしは恐怖に飲み込まれ、無の世界、深い暗闇に落ちていった。
しばらくの静寂の後、次第にパチパチと何かの爆ぜる音が耳に届いてきた。それは---嫌だ。それだけはだめだ。逃げなければならなかった。何をおいても、畏怖に胸を潰されようとも、命を賭けて、前に、前に、己の足を差し出さねばならなかったのに。
否応なく分かる。白熱した烈火の炎が全身を包んでいくのが。木柱に縛り付けられ火をかけられたのだ。躊躇が後戻りのできない最悪の事態を招いてしまった。
ああ、わたしは本能のまま駆け出さなければならなかった。もう遅すぎる。足先を炙っていた火種が、加勢した風を孕んで肥大する。裸火がはためき、噴き上げて舐め、煽る。鼻腔に入り、瞼を焼き締め、あらゆる生の細胞をじりじり焦がす。
こんなものは死者を弔う浄化の火でもない。残虐に荒れ狂う邪炎に体内の脂が流れ出す。ぽたりぽたりと滴り落ちる。落ちたそばから業火が燃やす。煤が飛ぶ。爪が鳴く。骨が軋む。紅蓮の炎に焼かれた髪が、服の燃え殻が、べろりと剥けた皮の下に貼り付いている。それらを丸ごと巻き込む地獄の火勢は増すばかりだ。痛い。熱い。熱い。いや、もはや熱さなど感じないのかもしれない。ただ、怖い。
わたしは嬲るように焼却されている。これは意味のない虐殺だ。いき過ぎた暴力で人間への尊厳を奪い去る。業火にいたぶられ露出した白骨に、血管がこびり付いて生々しい匂いを発している。醜く溶け落ちた内臓がびくりと震える反射でえづいた。肉という肉を焼灼しながら、轟々と燃え立つ音が増幅していく。断末魔の悲鳴さえ焼き滅ぼして、生き人を餌に炎が捲き上がる。苦しい。死なせてほしい。せめて意識を失わせてくださいと絶望の底で必死に祈る。
しかし、そう易々と解放されるわけではなかった。地獄の苦しみの中で、不意に無数の視線を感じた。大勢の男女が燃え上がるわたしを十重二十重にとり囲んでいる。蔑みと恍惚の表情を浮かべ、もはや原形をとどめない女の非業の死を望んでいる。
そうして、声が聞こえた。雷鳴が引き摺る余韻と聞き紛う禍々しい悪声が。辛うじて焼け残った耳奥の粘膜に最期の追い討ちをかけるように。
[悪逆の魔女は炙り殺された。邪悪なるトゥーラの憤怒が宿怨の呪いとして魔女らの森に蘇るだろう]




