ねずみの打たれ方
土曜日なので、教室にも共同職員室にも人気がなかった。宿直を兼ねて用務小屋に住むことになるというミスター・ルウを校舎裏に案内する。
用務小屋には今まで来る機会がなかったけど、そこは今まで来る機会がなかったことに感謝したほど汚らしい廃屋だった。蔦が這うに任せ、周囲の森の情緒に馴染むのは校舎と同じだが、基礎から屋根まで建材が朽ち果てて土に還ろうとしている点で異なる。
大方の予期に反して、入り口の戸は滑らかに開いた。しかし、その向こうに部屋という空間ではなく、何かが凝固した薄暗い惨状が浮き彫りになった時には目を覆いたくなった。
何か、はたくさんあった。破損した教卓、椅子、黒板は言うに及ばず、洗剤ボトルや数多のバケツに消火器、靴、飛翔用か清掃用具か判別のつかない箒-柄の長さ太さもさまざまな、折れたり曲がったり割れたりしている-、靴、花の種や化石化したドライハーブ、靴、靴、大破した靴、一部ずつ表面に出てきている古着の布地などなどが、本来床であるべきところに山積して、窓枠を入れ直立しているだろう壁面を、想像だにさせない妖力を獲得している。いずれかの菌類が心地よく育まれているに違いない。天井も落ちているようだ。
面という面を殺すゴミ屋敷は、経年劣化と自然の分解作用により、雑多な物同士を圧着してしまっている。さらに、万年校舎の影になっていて絶望的に日当たりが悪い上、小窓の分厚いカーテンも閉め切られていてたまらなく暗い。
ここに住むという話は何かの間違いに決まっている。濁ってジメジメした空気を吸うまいと息を止め、顔を背ける。その流れで、視線が掠め意識の端に止まったものがあった。おや、と思う。どうもゴミの中に気になる一点の有機物が含まれている。
物の混沌の片隅で、飛び出た縫い糸が比較的新しそうな潰れたブーツの上から丸い毛布がはまり込んでいる。と思っていたらぴくりと動いた。
よくよく目を凝らせば、それは毛羽立った灰色の毛布でも使い倒したボロ雑巾でもなく、力なく尻尾を垂らした用務員の小間ねずみであった。目を閉じて寝床と思われる靴の巣に横たわっているのだ。
お休み中の用務員のパーソナルスペースを図らずも覗き見してしまった気まずさと、劣悪な環境に対する人間的な罪悪感に怯む。出会ったばかりにもかかわらず、その変幻自在の語り口が彼たる所以だと断言できそうななんとも気の抜けた口調で、新しい先生が緊張を緩めてしまうまで。
「あ、ねずみだねぇ」
しかし、言わずもがなの呑気な呟きがミスター・ルウの口から漏らされた次の瞬間、鞭を振るうような鋭い音が不意に用務小屋の空気を引き裂いた。同時に、ダンゴムシのように臥せる小間ねずみの体がピクッと跳ねる。
突然の音に驚いたからではない。棒状のもので叩かれたのだ、と分かったのは、それが意志を感じさせる正確さでもう一度小間ねずみめがけて振り下ろされたからだ。哀れなねずみがまた跳ねる。今度はもっと速く大きい反応で。
ミスター・ルウとわたしは、用務小屋に一歩でも踏み込むための意気を挫かれて、目を丸くして突っ立っているしかなかった。
動物虐待なんて絶対に勘弁してほしい、と正義感に駆られたことで冷静さを取り戻す。うずたかく積まれたコピー用紙の山が、その陰に小間ねずみを打った誰かを匿っているようだ。黒い袖口からちらりと覗いた手首に、ある腕時計が巻かれていた。華奢な星のデザインには見覚えがある。
「ミセス・ゼムフィーラ」
急に呼ばれて身動きしたのか、背丈以上に積み上げられた紙の束が怒涛の雪崩を打った。振り向きざま、小間ねずみを打擲した杖を握ったミセス・ゼムフィーラの全身が露わになる。常との差異は、とがり帽子が収まるべき定位置から雪崩に巻き込まれて落下していることと、知識人らしからぬ思考停止状態だった。
「あ…ご、誤解よ、ベリィ。あなたが思っているようなことではないの。小間ねずみは大丈夫なのよ。ち、ちょっとしたお仕置きだから」
収束しかねるバツの悪さにミセスは焦って弁解しようとするが、それにしては迫真の杖の振り下ろし方だった。それに学校の用務員をお仕置きって…もの言わぬ働く小動物なのに。先生、介護のストレス溜まり過ぎではないだろうか。杖の用途は著しく誤っているし、帽子を失くしたことにさえ気が回らない。沈着な郷土史家には似つかわしくない失態だ。
「し、失礼」
舌の根も痺れてしどろもどろのミセス・ゼムフィーラは、ゴミのカオスを器用に踏み分けそそくさと脱出していった。新任の後輩が臨場していることにも気付かず、穴開きのバケツが片足にすっぽりはまり込んでいる。
「よくわからないけど壮絶だったね」
ミスター・ルウが神妙な小声で耳打ちし、決まりの悪い椿事には一応終止符がついた。
用務員の小間ねずみがミセス・ゼムフィーラに折檻を受けていた、というショッキングな目撃談を、わたしはアンナにも報告しなかった。先生のことは敬愛していたし、‘‘BERRY’’ブランドのカスタマーだし、悪く取られてはアレなので控えたのだ。きっとのっぴきならない事情があったんだろう。起き上がった小間ねずみもぴんぴんしていたし。
代わりに「日曜学校で『世界史』の補講があるらしい(-_-)」と送ると、画面には噴火するノース・マウンテンの動くスタンプが上がってきた。間髪入れず「日曜!?バイトできないじゃんかー!」と憤りのメッセージ。
あの後ミスター・ルウは、ぐじゃぐじゃの古い遮光カーテンと一緒くたに埋もれていた撥水エプロンを発掘し、荒れ放題の用務小屋を住める環境にするために解体作業、もとい大掃除を開始した。凛々しいダークスーツに花柄のエプロンが意外に映えていて、頭部だけ見ればあんななのに、背が高いし何でも着こなすなぁこの人は、と感心しつつ一度家に戻った。
ひとまず夜中に起こりやすいというミセスのお母様の空咳が、早く治まればいい。咳止めシロップを丁寧に壜に詰め、ブラッキーに群がる小人の撃退、イノの散歩と雑用なんかを終えてから、夕方には学校へ引き返した。ヴェロニカ副団長の自宅で協議団の面々と顔合わせするというミスター・ルウを送り届ける約束になっていたのだ。
天文魔女のエリアまで来ると、日の落ちた薄暗い晩方によく目立つ矢印リボンが、緑色に光りながらしゅるしゅる飛んできて、あとはわたしの代わりに道案内するようだった。
尺を取って目的地を指し示すリボンにミスター・ルウは戸惑っていたが、「近づいても触れても大丈夫です。副団長の家に着いたら赤く点滅しますから」と声をかけると、顔つきが和らいで「今日はありがとう、ミス・ウスペンスカヤ。また来月学校で」と後ろ歩きしながら手を振った。振りつつ、思い出したようにジャケットの内ポケットから携帯電話を引っ張り出した。
「あ、そうだ。スマホの電波が入らなくて。何か特別対応のセッティングが必要なの?」
「それならヴェロニカ副団長にお聞きになってみてください。新しい端末が支給されるかと。アカウント登録からきめ細かく教えてくださると思います」
薬草に終始するわたしより天文魔女の担当事項だ。
先生は、矢印にせっつかれて踵を返す時また躓いたが、昼間よりは随分確かな足取りになっていた。怯えまじりで青白かった顔色も多少良くなったものの、腫れの引かないお尻に頻々と手を当てているのが滑稽ながらも気の毒だった。会合後に公民館で一泊してから翌朝のペガサス便でトンボ帰りするらしく、さらにお尻が腫れ上がるヘビーな旅路になりそうだな、と思った。




