もじゃもじゃ高鳴る
そして、大げさに拳を固めて歩き出したそばから、平坦な通路でいきなり躓いた。ありがちな連載初回の転校生のように、力みすぎて転んで笑われ、クラスの不良にナメられてパシリに使われる主人公の運命やいかに…とはいかなかったが。
初歩でバランスを崩し、おぉぉぉぉーっ、と声張り上げながら伸ばした指は虚しく宙を掴み、バチン、ビタンと音を鳴らして真っ向顔から倒れ込む。聖堂を支配する短い閑けさが過ぎ去った後にもじゃもじゃの後ろ頭から捻り出されたのは、ぎゅいぃ、という呻き声。床に伸された轢死のカエル。曲げられた脚。揃えて突き出される両腕。宙空をなぞっていた掻き手から落ちたサングラスが、結びの合図のようにすっと床を滑った。
と同時に、団長が呆れた笑い声を上げると、わたしもついついニヤついてしまう。恥ずかしいのに幻滅しないのはなぜなのか。ドン引きさせない秘訣は何か。
それはつまり、第一印象でやらかした醜態のはずなのに遠慮なく笑える空気があるからなのだ。人の失敗を笑って、とか、他人にされて嫌なことはしちゃダメ、とかの逆説的に悪意なる固定観念ではなく、なんか全く気の毒に感じさせない三枚目キャラの弾力と、笑いこそ至高と断じてしまえる自己肯定感が、当たり前のようにそこにはあった。
「ははは、いやぁ初めまして。来月魔女村学校に着任します『世界史』担当のアレクセイ・ルービックです。今日は見学がてらご挨拶に」
貪欲に笑いを増そう精神なのかコケた勢い余ってなのか、床で平泳ぎをしていた人は、何事もなかったかのように起き上がりつつベタな愛想笑いでごまかそうとした。しかし、情け容赦なく声が裏返っている。
仕草の一々、言葉の端々に、やはり自発的な道化役の匂いがする。眼鏡を拾い上げながら無声の絶叫で激痛を痩せ我慢する様子からは、外見(頭部除く)のシュッとした印象とは違って、持って生まれた愛嬌というものが遺憾なく発揮されているようだった。
「こっちへ来なさい。噛みつかないし、爆発したりしないよ」
しかし、団長の機嫌はまた悪くなっているのだ。
手招きの力加減がバドミントンのスマッシュほど強大だが、それもたぶん自分の落ち度である。教会には天候魔女のシスター・ソラがいるということさえ伝えていなかったのだろう。
貫禄の団長、妙齢の修道女、未成年らしい十代の魔女。密閉空間に三人集った魔女たちを警戒しているのか、埃を払って体勢を立て直した新しい先生は、まだ途中で立ち止まったままだ。明らかに必要以上の距離をとっている。
「まあいい。このルバートさんは外の普通の人なんだけどね、初めて教師を派遣するに当たって、王国政府から選びに選び抜かれて来たんだよ」
あ、やっぱり。外から来た人に初めて会ったけど、エネルギーが低いというか薄いというか、どこか捉えどころがないのはそのせいだったんだ。
魔女も外の人も全く同じ人種だから、人体構造自体は何も変わらない。きっと長年に亘って摂取してきたものの質や過ごしてきた環境によってオーラは変わるのだ。魔女村の者は、精気濃い森で生まれ育つから根本が強いのだろう。
「非常に優秀なんだわねぇ。ベリィ、よく学ばせてもらいなさい。特に好奇心豊かなエリートの集中力を」
イラつきで太く揺るぎないオーラをこれでもかと発露している我らが団長が、中高年女性特有の嫌味を繰り出す。気短だから、あれこれ検分したがる彼を駅で拾ってから相当持て余したのだろう。
「気取った色眼鏡だって、学問の観察用だか若い魔女ウォッチング用だかわかったもんじゃないね」
ただのファッションだよ、団長。もう声量いささかも絞れてないし。
「恐れ入ります、スイ団長。姓はルービックですが。ということで、初めての科目で慣れないだろうけどよろしく」
お手本のような低いツッコミから無闇に気合の入った初対面の挨拶への落差が激しい。この先生が喋ると、途端に空気が和む。初めて関わる外の世界の人だけど、これなら同級生や大人たちもたちまちファンと化すだろう。
「こちらこそよろしくお願いします、‘‘ミスター・ルウ’’」
アットホームなムードに乗っかって、身近な人の名を略す習慣に則って呼んでみた。学年担任であるミセス・ゼムフィーラは、公式なら‘‘ゼムフィーラ・アレクサンドロブナ’’と、下の名前に父称を送る。それでは長いから‘‘ミセス’’だけを冠しているのだ。独身だけど指導者なので。
‘‘ミスター・ルウ’’と心の中で反芻してみて、発音しやすいしなかなかいい感じだ、と自賛する。
「‘‘ルウ’’か、また新しい名だ。これは嬉しいなぁ。君は私の名付け親第二号だね」
「初めまして。ベリィ・ウスペンスカヤです、ミスター・ルウ」
「まぁ、ベリィのネーミングセンスは素晴らしいですわね。私も本来は‘‘ソーリャ’’に近い発音ですが、今では語感すっきりの‘‘ソラ’’を名乗っております。団長でしたわね、そう呼ばれ始めたきっかけは」
‘‘ルバート’’といい‘‘ソラ’’といい、お約束の呼び違いね。当のスイ団長はマイペースにもどこ吹く風だ。
「『世界史』開講の決定が遅れてね。というより、急に必修科目として追加されることになって、五月からのスタートだし年間の授業時間が足りないらしい。ここの日曜学校を間借りして埋め合わせることになったんだよ。面倒だしうやむやにしようとしたんだけど、もう王国政府が口出ししてきてうるさいのなんのって」
履修時間は確保されて、卒業までに単位は取れるってことね。でも、必修の科目を増やした上に日曜まで授業ってえらく横暴じゃない。
「こちらのシスター・ソラにご挨拶なさい、ルンバ」
「ルービックです。いや、‘‘ルウ’’か。お会いできて嬉しいです、シスター・ソラ。日曜学校ではお世話になりますが、どうぞ良しなに」
「こちらこそ。ようこそ、ミスター・ルウ。黒板はございますからご安心ください」
俄かに堅苦しくなった先生に人懐こい笑顔を向けて、ほのぼのとシスターが応じた。
「変わったお召し物ですけど素敵ですわね」
続けてストレートに褒められて、また若干俯いたミスター・ルウは胸中どぎまぎしていると思う。シスター・ソラは花も恥じらう美人なのだ。
実は、ここに入ってきてから、ミスター・ルウの目線はしばらく彼女一点に集中して、それから微妙に逸らされたままだったもの。なかなか距離を詰めてこないのも、安全確保のためだけではなくて意外にシャイだからかもしれない。照れ隠しのお調子者という例もある。
「科目が新しく取り入れられるなんて画期的なことですわ。ミスター・ルウもこちらのお生まれでもないのに、教育面から貢献なさるなんて本当に素晴らしい」
「あ、ありがとうございます」
やはりミスター・ルウは動揺を隠せないようだ。喉仏が波打っているのは演技ではないだろう。胸が高鳴り、囁き声も上擦っているのだ。
しかし、シスター・ソラの何がすごいって、自然現象を手のひらで転がす別格の魔力はもちろんだけど、畳みかける『素晴らしい』発言の連発が毎回本音であることだ。浮世離れしたコメントに賛同しかねることも多いが、のんびりとした優しさに触れて心洗われる人のいかに多いことか。
魔法を素地とする村の要は、落ち込んだ感情や小さな邪心を懐柔する名手でもある。孤児だったために幼少時からシスターだから恋愛沙汰とは無縁だけど、男の人なら例に漏れず神聖な女性として憧れずにいられないだろう。
二人を見比べていたスイ団長が、さて面倒な用事は済んだとばかりに手を打ち鳴らす。 飾り杖はもうローブの下に早々に仕舞い込んだのだろう。
「ソラ、再来週のワルプルギスの打ち合わせをしようかい」
「そうですわね。もう再来週の今日でした。どうぞ執務室へ」
「ベリィ、悪いんだけどその先生学校へ案内してやってくれるかい。頼んだよ」
「え、」
返事をする隙も与えず、団長は祭壇下手のドアを開け一人でずんずん行ってしまった。
「新任の先生を学校へ案内なさるなんて、ベリィの親切は素晴らしいですわね。道中ご安全に」
素晴らしい微笑みを残して、シスター・ソラもドアの向こうへするすると行ってしまった。




