太陽の人と犬と小人
紙袋から漂う香ばしいパンの匂いにうっとりしながら、庭の押し開き戸を押して蔓バラのアーチを潜ると、もさもさした温かい感触が瞬間的に膝から下をかき撫でていった。うわっと驚いたが、見下ろせばやはり狼犬のイノだ。玄関のドアを器用に開錠してまた母屋から脱走している。
待ちわびたわたしが帰ってきたので、素直なイノの喜びが爆発していた。風のようにしなやかに、飛び退る速さは光のごとく、庭の端から端を往復している。高速の犬の幻影。伸び伸びと走る姿には野性味の美しさがあふれていて、軽く窘める言葉も忘れてしばらく見とれてしまう。
「しょうがないなぁ」
呆れながら、わたしの頬はだらしなく緩む。用心深いイノは、わたしの足音を聞き分けて飛び出しはするものの、庭から外へ出奔したりはしない。先の尖ったイネ科の草をむしゃむしゃやりながら気まぐれに歩き回っていることもあるが、気が済めばすんなり母屋に戻っている。
「おいで、ただいま」
それを合図に突進してきたイノのすべすべの頭を撫でまわす。彼女は、少し内気だが純情な性格をしたわたしの姉妹かつ娘でいて、薬草仕事で籠りがちな女主人をこまめに散歩に連れ出さずにはおかない目標運動量のペースメーカーともなり、手触り極上で可愛すぎるふかふかの癒しでもあるという、多面をこなす八歳犬である。
「会えて嬉しい」
今朝は‘‘まじょっち’’に出向く必要があったため、ゆったり散歩に出てからブラシで梳いたり、わさわさ戯れかまったりする時間を持てなかった。どうせ遅刻するならこちらの事由でよかったのに、と内心悔いていたのだ。
「あとでゆっくり歩きに出ようね」
豊かな被毛を抱きしめると、イノはじっとして色素の薄い黄金色の目をしぱしぱと瞬く。その様子がまた可愛らしくて、わたしはクールな狼の風貌を誇るイノに親愛のキスを降らせる。
ついでに油断した隙を突いて抱き上げ、玄関へ続く枕木の上をえっちらおっちら運んでいると、庭先から野太い声が飛んできた。
「おい~!帰ってきたか~!おかえり~!」
お隣のモリーダスさんだ。抱えられた自由の効かない格好で、ふさふさとイノの尻尾が揺れ動く。
モリーダスさんは、薬草エリアの栄えある農場長を務めて長い。手押し車を下ろすと同時に、農業で鍛えられた分厚い手を、空を切る音がしそうなほど力強く振ってくる。
まだまだ朝晩は肌寒いのに白い半袖Tシャツにデニムのつなぎ姿の農場長は、つつましく頭に載った小さめの麦わら帽子をトレードマークとしている。まさしく農夫、といったいつもの出で立ちだ。
「野菜採れたてだ~!ここに置いとくからな~!にんじんは細くて見た目は悪いけど味はいいぞ~!」
「いつもありがとうございますー!」
つられて大声になる。モリーダスさんは、銀河系の中心で燃え盛る太陽そのもののような人だ。いつだって元気もりもりで、こちらにまで否応なく人間的なバイタリティが伝わってくる。畑の土から蓄えた力を分けてくれるのだ。今日は特に生命力が溢れているらしく、わたしにも手にとって見れるほど熱い紅炎のオーラを発している。
「お母さんいなくてもちゃんと食べろよ~!」
「はいー!」
使い込んだ手押し車から降ろされたおすそ分けの春野菜は、庭に据えた二人がけのベンチに積まれ小山になった。
「要る時はいつでも言えばいいさ〜!じゃあな〜!」
得意気な大きい笑顔を一つ残してまた全力で手を振り、ペッタペッタと長靴の音を立てながらモリーダスさんは去っていった。
鮮明に発色するマメ類は光沢を帯び、柔らかそうな葉を幾層にも重ねたキャベツは、しっかりと重みのある存在感を放っている。パンとシチューはあることだし、今晩はとりあえず大量のサラダをつくらなければなるまい。
ウスペンスカヤ家の玄関では、もう一匹の愛犬ブラッキーが、群がる小人たちに足や尻尾をつつきまわされていた。数において圧倒的劣勢ながら楽しそうに戦っていたが、狼犬のイノが加勢したことで戦況は急転、退散勝利を挙げるに至ったようだ。
紅白のボーダーニットを着た小人たちは、ただちに廊下にあるミニチュアサイズの片開き扉から自分たちのテリトリーへと退いていった。大群なので目がチカチカする。
撤退のどさくさに紛れて落ちた小さなとがり帽子が取り残されている。実際には、仮にも愛犬を攻撃された恨みでとっさに蹴りかけた奴の落とし物だ。恨めしい目つきで見返してきたので、眼力を込めて睨んでおいた。
あいつらはいつもあの低いドアからどこに帰っていくんだろう。床下かな。頑丈な基礎に巣を作っているのだろうか。通常鍵が掛けられているし、開け閉めする時は、進軍、退却する小人、小人、小人の大挙密集のせいで扉の内部は明らかでない。
「ブラッキー大丈夫だった?悪いことされたらわたしに言うんだよ」
気の良さそうな顔をして目を輝かせたブラッキーは、黒光りする尻尾をぶんぶんと振り回して風切り音を立てる。
キレイな筋肉の動きに合わせて濡鴉色の全身がつやつや光ると、親馬鹿は十分自覚しているが、こんなに美しい黒はちょっと他にはないと思う。わたしの家族である彼女もまた、警戒心が強く怖がりなところがあり、穏やかで優しい。
小人らは果敢に陣地争いをしているつもりだが、中型犬のイノとブラッキーにとっては暇つぶしの遊び相手のようなものだ。本気で攻め入ってくる小人軍団にそれなりに応戦しながら適当にいなすのが日常茶飯となっている。イノとブラッキーが来てからの突撃はいまだ全敗で、奴らは何度も諦めずに立ち向かってくる。
しかし、丸まって眠る二匹にくっついて集団で暖をとっていることもあって、冬にはよく居間で山なりの集合体になっていびきをかいていた。敵同士と単純には突き放せない関係性である。




