五人目の座席
エンジンが止まった。
その瞬間、車内からすべての音が消えた。
エアコンも。
ラジオも。
エンジンの振動も。
何もない。
ただ、四人分の荒い呼吸だけが、暗い車内に残っていた。
「……今」
最初に声を出したのは、直樹だった。
「今、誰か……いたよな?」
誰も答えない。
直樹は後部座席を見る。
美咲の隣。
沙耶の隣。
そして、その二人の間。
そこには誰もいない。
けれど。
シートだけが、はっきりと沈んでいた。
誰かが座っているように。
いや。
正確には。
今まで誰かが座っていて、ついさっき立ち上がったような沈み方だった。
「……見えない」
美咲が呟いた。
「何が?」
「さっき……誰かが座ったのに」
「分かってる」
「じゃあ……」
美咲の声が震える。
「今も、いるの?」
答えはなかった。
そのとき。
コン。
窓を叩く音がした。
四人の肩が跳ねる。
料金所の男だった。
車の外。
運転席側の窓のすぐ横に立っている。
顔が近い。
近すぎる。
白い。
皮膚の色というより、光を反射しているような白さだった。
目だけが妙に暗い。
男は窓の向こうから悠斗を見ている。
何も言わない。
ただ、手を上げた。
そして。
手のひらを窓に当てた。
ぺたり。
ガラス越しに見える手は、異様に細かった。
指が長い。
爪は黒く見えた。
悠斗は動けなかった。
「……悠斗」
直樹が小声で呼ぶ。
「動かせ」
「やってる」
「もう一回」
「やってる!」
悠斗がキーを回す。
カチ。
カチカチ。
セルモーターは回る。
しかし、エンジンがかからない。
「何でだよ……」
三度目。
四度目。
五度目。
そのたびに、車内へ乾いた音だけが響く。
男は動かない。
そして。
突然、男が口を開いた。
「……通行料を」
悠斗は答えなかった。
男がもう一度言う。
「通行料を」
声は小さい。
けれど、不思議なほどはっきり聞こえた。
「……いくら?」
直樹が聞いた。
「直樹!」
美咲が止める。
だが、直樹は男から目を離さない。
「聞けばいいだろ」
「何で?」
「だって料金所なんだから」
「そういう問題じゃない!」
直樹の顔から笑みが消えた。
「じゃあ、どうする?」
誰も答えられない。
男が指を一本立てた。
そして。
車の後ろを指差した。
「……一人」
男が言った。
「一人分」
沙耶が小さく息を呑んだ。
「……一人?」
「一人分、足りません」
その言葉を聞いた瞬間。
車内の空気が冷たくなった。
夏なのに。
エアコンが止まっているのに。
吐く息が白く見える気がした。
「意味わかんない」
美咲が言った。
「俺たち四人だろ」
直樹が言う。
「四人分なら四人分じゃん」
男は答えなかった。
ただ。
後部座席を見ている。
見えない誰かがいる場所を。
「……あいつの分です」
男が言った。
「誰?」
美咲の声が掠れる。
男は答えない。
代わりに。
車の屋根から、
コン。
と音がした。
全員が上を見た。
コン。
もう一度。
今度は、
ズ……。
何かを引きずるような音。
屋根の上を何かが歩いている。
ゆっくり。
車の前方へ。
「……何?」
沙耶が震える。
「分からない」
悠斗は小声で答えた。
音がフロントガラスの上まで来た。
そして。
止まった。
四人は動けない。
フロントガラスの向こう。
料金所。
その奥。
木々。
何もない。
ただ。
車の屋根の上に何かがいる。
その気配だけが分かる。
直樹が小さく言った。
「……これ、マジでやばい」
誰も笑わなかった。
突然。
車の屋根から音が消えた。
同時に。
料金所の男が後ろへ一歩下がった。
そして。
道の奥を指差した。
「……あそこまで」
男が言った。
「送ってください」
悠斗は眉を寄せる。
「……誰を?」
男は答えない。
もう一度、指差した。
車の後部座席。
そして。
「五人目を」
そう言った。
その瞬間。
車内の室内灯が点いた。
パッ。
一瞬。
それだけだった。
しかし、その一瞬で。
全員が見た。
後部座席の中央。
誰も座っていないはずの場所に――
長い髪の毛が一本、落ちていた。
黒い髪。
濡れている。
シートに貼りついている。
美咲が震える手でそれを見つめた。
「……誰の?」
沙耶が答える。
「私じゃない」
美咲も首を振る。
「私も違う」
直樹は髪の毛を見たまま黙っている。
悠斗が振り返る。
「……直樹?」
「何?」
「お前じゃないよな」
「俺、こんな長い髪じゃない」
当然だった。
四人の誰の髪でもない。
悠斗は震える手でキーを回した。
今度は。
エンジンがかかった。
「……かかった」
直樹が言う。
「行こう」
「でも」
美咲が料金所の男を見る。
男はそこに立っている。
道路を塞ぐように。
悠斗がアクセルを踏む。
車がゆっくり動き出した。
男との距離が縮まる。
三メートル。
二メートル。
一メートル。
「止まれ」
直樹が言った。
「何で?」
「……あいつ」
男が車を見ている。
そして。
笑っていた。
悠斗がアクセルを踏み込む。
車は男の横を通り過ぎた。
その瞬間。
後部座席から、
「ありがとう」
という声がした。
四人全員が振り返った。
誰もいない。
なのに。
声だけは確かに聞こえた。
しかも。
それは。
美咲の声だった。
「……え?」
美咲自身が青ざめる。
「私……言ってない」
直樹が叫ぶ。
「前向け!」
悠斗が前を見る。
目の前に道がある。
細い山道。
ヘッドライトが照らす先に、白い霧が出ている。
「霧?」
美咲が言った。
「こんなところで?」
霧は道路を覆っていた。
どんどん濃くなる。
悠斗は速度を落とした。
ナビを見る。
画面が真っ暗になっている。
「ナビ死んだ」
「電源?」
「入ってる」
「じゃあ何で?」
画面中央に、見たことのない文字が表示されていた。
目的地:
「料金所」
「……は?」
悠斗が呟く。
直樹が覗き込む。
「何それ」
「分からない」
「さっき通り過ぎただろ」
「そうだよ」
美咲がスマートフォンを取り出した。
「地図見る」
だが。
スマートフォンもおかしかった。
地図アプリを開いても、現在地が表示されない。
現在地を取得しています。
その表示がずっと続いている。
沙耶が自分のスマートフォンを見る。
「……待って」
「何?」
「時間」
「何時?」
「0時17分」
悠斗が時計を見る。
「……俺も」
直樹も確認する。
「俺も0時17分」
美咲も。
「……私も」
全員の時計が、
0時17分。
止まっている。
車のデジタル時計も。
スマートフォンも。
腕時計も。
全部。
0時17分。
沙耶が小さく言った。
「……戻ってる」
「何が?」
「時間」
「え?」
「さっきも……」
沙耶は震えながら言った。
「料金所に着いたときも、0時17分だった」
誰も何も言えなかった。
確かに。
そうだった。
料金所に着いたとき。
車が動かなくなったとき。
男が現れたとき。
そして今。
全部。
0時17分。
「……ありえない」
直樹が呟く。
「時計が全部壊れるなんて」
「じゃあ、どういうこと?」
「分からない」
悠斗は車を止めた。
「一回、戻る」
「え?」
「来た道を戻る」
「戻れる?」
「戻るしかない」
Uターンしようとした。
しかし。
道路の両側は濃い霧で覆われている。
「見えない」
悠斗が言った。
「何も」
ヘッドライトを上向きにする。
白い霧しかない。
そのとき。
後部座席から、
カサ。
と音がした。
美咲が振り返る。
「……何?」
また。
カサ。
今度は。
誰かが座席の上で身じろぎしたような音。
「……ねえ」
沙耶が泣きそうな声で言った。
「さっきの髪……」
「何?」
「一本じゃなかった」
美咲がシートを見る。
さっきまで一本だったはずの黒い髪。
今は。
三本。
濡れた黒髪が、シートの上に落ちている。
しかも。
一本。
また一本。
ゆっくり増えている。
「……やだ」
沙耶が後ろへ身体を寄せる。
美咲がドアに手を伸ばした。
「開けないで!」
直樹が叫ぶ。
「外に出たらダメだ!」
「でも……」
「絶対ダメ!」
その瞬間。
車の後ろから。
ドンッ!
大きな音がした。
全員が振り返る。
トランク。
何かがぶつかった。
ドンッ!
もう一度。
今度は車体全体が揺れた。
「何!?」
悠斗が叫ぶ。
ドンッ!
三度目。
そして。
車の後部ガラスに、
手形が浮かんだ。
外側から。
五本の指。
細く、長い手形。
一つ。
二つ。
三つ。
次々と増えていく。
「走れ!」
直樹が叫ぶ。
「悠斗!」
「分かってる!」
悠斗がアクセルを踏む。
車が動き出す。
霧の中へ。
何も見えない。
ただ前へ。
そして。
数分後。
霧が突然晴れた。
「……抜けた?」
美咲が呟く。
道路の先に、明かりが見える。
街灯。
建物。
そして。
見慣れた道路。
「戻った?」
悠斗が速度を落とす。
四人は無言だった。
ナビを見る。
現在地が表示された。
「……鷲羽山の入口」
直樹が言った。
「戻ってきた?」
悠斗が車を止める。
四人は顔を見合わせた。
誰も笑わない。
誰も喜ばない。
ただ。
美咲が後部座席を見る。
そして。
息を呑んだ。
「……ねえ」
三人が振り返る。
「どうした?」
美咲は座席の隅を指差した。
そこに。
黒い髪が落ちている。
一本ではない。
三本でもない。
束になっていた。
そして、その髪の下から。
小さな紙切れが覗いていた。
直樹が拾う。
古い紙。
湿っている。
そこには、薄い文字でこう書かれていた。
『通行料 五人分』
悠斗が紙を見つめる。
「……五人分?」
誰も答えない。
そのとき。
車内のバックミラーに、
一瞬だけ。
後部座席の中央に座る人影が映った。
長い髪。
俯いた顔。
白い手。
美咲が振り返る。
誰もいない。
もう一度ミラーを見る。
何もない。
「……今、見た?」
美咲が言った。
直樹は答えなかった。
ただ。
車のドアを見ていた。
運転席側。
その窓の外に、
いつの間にか。
男が立っていた。
料金所の男。
その男は笑っていた。
そして。
口だけを動かした。
「……一人、置いていってください」
その直後。
車内の誰かが、
小さく笑った。
四人の誰の声でもない笑い声が、
車の中に、響いた。




