存在しない料金所
鷲羽山へ向かう車の中で、最初に「帰ろう」と言ったのは、運転席の悠斗だった。
「……やっぱ、やめね?」
午後十一時四十八分。
夏の夜とは思えないほど、山へ向かう道路は静かだった。
助手席の直樹がスマートフォンから顔を上げる。
「は?」
「いや、なんかさ」
悠斗は前を見たまま言った。
「今日、妙に道が暗くね?」
後部座席から美咲が笑った。
「それ、山だからでしょ」
「そうなんだけど」
「何それ。怖くなった?」
「別に」
「じゃあ行こ」
美咲の隣に座っていた沙耶が、窓の外を見ながら小さく笑った。
「ここまで来て帰るの、もったいないよ」
「だよな」
直樹が身を乗り出した。
「そもそも今日、何のために来たと思ってんの?」
「夜景」
「違う」
「肝試し」
「正解」
直樹が満足そうに頷いた。
四人は同じ高校の同級生だった。
大学に進学した者もいれば、就職した者もいた。
それでも夏休みになると、なんとなく集まって遊ぶ。
今年もその程度のつもりだった。
海へ行こうという話が出た。
花火をしようという話も出た。
その流れで、誰かが言った。
「じゃあ夜の鷲羽山行ってみね?」
誰が最初に言ったのかは、四人とも覚えていなかった。
ただ、直樹だけは異様に乗り気だった。
「鷲羽山ってさ、昔、有料道路だったんだろ?」
「そうらしいね」
美咲が答える。
「で、料金所のところに幽霊が出るって話、聞いたことある」
「それそれ」
直樹が嬉しそうに笑った。
「料金所の幽霊」
沙耶が眉を寄せる。
「でも、料金所なんて今ないでしょ?」
「ない」
「じゃあ何が怖いの?」
「ない場所に出るから怖いんじゃん」
「……意味わかんない」
車内に笑い声が広がった。
そのときは、それだけだった。
誰も本気で怖がっていなかった。
少なくとも、四人ともそう思っていた。
鷲羽山へ向かう道は、昼間なら観光客や車でそれなりに賑わっている。
瀬戸内海を望む景色。
瀬戸大橋。
海の向こうに広がる四国。
けれど、深夜になると印象がまるで違う。
街灯の間隔が広い。
道路脇の木々は黒い壁のように見える。
カーブを曲がるたび、ヘッドライトの先だけが白く浮かび上がる。
その向こう側は、何も見えない。
悠斗は速度を少し落とした。
「なあ」
「ん?」
「スマホ、電波ある?」
直樹が確認する。
「あるよ」
「俺も」
美咲も画面を見る。
「私もある」
沙耶だけが首を振った。
「……私、ない」
「え?」
三人が一斉に振り返った。
沙耶のスマートフォンには、圏外の表示が出ていた。
「さっきまであったんだけど」
「機内モードになってない?」
「なってない」
「再起動してみれば?」
「うん」
沙耶が電源ボタンを押した。
その瞬間だった。
車内の音楽が途切れた。
「……あれ?」
悠斗がオーディオを見る。
「Bluetooth切れた?」
「俺のスマホ?」
直樹も確認する。
接続は切れていなかった。
それなのに、音だけが消えている。
エアコンの音。
タイヤが道路を走る音。
エンジンの振動。
それ以外、何も聞こえない。
四人が黙った。
数秒。
十秒。
そして。
プツッ。
突然、音楽が戻った。
四人が一斉に顔を上げる。
「……何だったの?」
美咲が笑った。
「怖っ」
「やめろって」
悠斗も笑う。
けれど、その笑い方には少しだけ無理があった。
直樹がスマートフォンを見る。
「今、何分?」
「十一時五十六分」
「あと四分で十二時か」
「だから何?」
「いや、なんとなく」
直樹は窓の外を見る。
「こういうのって十二時過ぎてからが本番じゃん」
「やめてよ」
沙耶が言った。
「そういうの苦手なんだから」
「ごめんごめん」
直樹は笑った。
そのとき。
道路脇に、小さな看板が見えた。
悠斗が通り過ぎる瞬間、ちらりと目を向ける。
古い看板だった。
文字はよく見えない。
「……何か書いてあった?」
美咲が聞く。
「いや」
「今、見たでしょ」
「見たけど、読めなかった」
「何の看板?」
「分かんない」
車はそのまま進んだ。
後ろを見る者はいなかった。
もし誰かが振り返っていたら。
その看板が、車の後ろを向いた瞬間だけ妙に明るく照らされていたことに気づいたかもしれない。
そして。
そこには、
「料金所」
という文字が残っていた。
午前零時三分。
四人は鷲羽山の山道をさらに上っていた。
「そろそろ展望台?」
沙耶が尋ねる。
「もうちょい」
悠斗が答える。
ナビを見る。
目的地まで、残り一・八キロ。
その表示を見た直樹が眉をひそめた。
「ん?」
「どうした?」
「いや……」
直樹はナビを覗き込む。
「さっきも一・八キロじゃなかった?」
「え?」
「ほら」
「……本当?」
美咲も身を乗り出す。
画面には確かに、
目的地まで一・八km
と表示されている。
「道が混んでるとか?」
「山道だからそんなに変わらないんじゃない?」
悠斗が言った。
その直後。
ナビが、
ピン。
と音を鳴らした。
画面に新しい表示が出る。
「ルートを再検索します」
「何で?」
悠斗が眉をひそめる。
「道、間違えた?」
「いや、ナビ通りに来てるけど」
画面上の青い線が消えた。
代わりに、見慣れない細い道が表示される。
「何これ?」
美咲が言った。
「そんな道、ある?」
悠斗が車を止めた。
「ちょっと待って」
地図を拡大する。
そこには、確かに一本の道路があった。
現在地から山の奥へ伸びている。
「この道?」
直樹が指を差す。
「でも、こっちじゃないだろ」
「ナビはこっちって言ってる」
「やめとこうよ」
沙耶が言った。
「何で?」
「だって、知らない道じゃん」
「いや、ナビに出てるんだから道なんじゃない?」
「そうだけど……」
沙耶は窓の外を見た。
右側。
木々の向こうに、細い道路が見える。
ガードレールもない。
街灯もない。
ただ、暗闇の中へ伸びている。
「……本当に行くの?」
「せっかくだし」
直樹が言った。
「こういうのが肝試しじゃん」
悠斗は少し迷った。
そして。
「……五分だけな」
車を動かした。
細い道へ入る。
その瞬間。
車内の空気が変わった。
誰も口を開かなくなった。
道路は思った以上に狭かった。
木の枝が車体に当たる。
カサ。
カサ。
窓のすぐ横を、黒い葉が流れていく。
「大丈夫?」
美咲が聞く。
「たぶん」
悠斗の声が少し硬い。
ナビは何も言わない。
ただ、画面の上では青い線が一本、ずっと先へ伸びている。
そして。
五分経った。
「……まだ?」
直樹が聞く。
「もう少し」
「さっき五分って言ったよな」
「分かってる」
さらに二分。
三分。
道路が突然開けた。
目の前に、広い場所が現れる。
駐車場のようだった。
けれど、車は一台もない。
照明もない。
その中央に、建物らしきものが見えた。
「……何あれ?」
美咲が呟いた。
悠斗がブレーキを踏む。
ヘッドライトが建物を照らす。
古びた屋根。
小さな窓。
そして、車一台分ほどの通路。
直樹が息を呑んだ。
「……料金所?」
誰も答えなかった。
料金所だった。
間違いなく。
古い料金所。
まるで何十年も前から、そこに置き去りにされていたような。
「待って」
沙耶の声が震えた。
「ここ……本当に?」
美咲がスマートフォンを取り出した。
「調べる」
検索画面を開く。
「鷲羽山 料金所」
結果が表示される。
かつて鷲羽山スカイラインには料金所があった。
しかし、道路は現在無料で利用できる。
料金所は撤去されている。
美咲は画面を見つめた。
「……ないよ」
「何が?」
「ここに料金所があったっていう場所」
「じゃあ、これ何?」
直樹が言った。
その瞬間。
コン。
車の窓が鳴った。
四人が固まる。
コン。
もう一度。
誰も動かない。
悠斗が小声で言った。
「……誰かいる?」
返事はない。
コン。
三度目。
今度は、助手席側だった。
直樹が窓を見る。
真っ暗で、何も見えない。
「外、誰かいるんじゃね?」
「やめて」
沙耶が言った。
「ちょっと見てくる」
直樹がドアに手を伸ばす。
「待って!」
美咲が腕を掴んだ。
「何?」
「出ないほうがいい」
「でも――」
「何か変だよ」
「何が?」
美咲は答えられなかった。
ただ。
何となく。
外に出てはいけない気がした。
そのとき。
料金所の小窓に、人影が現れた。
四人とも見た。
間違いなく。
男だった。
古い制服のような服を着ている。
顔は暗くてよく見えない。
男は窓の向こうから、こちらを見ていた。
動かない。
ただ立っている。
直樹が呟いた。
「……人?」
男が一歩、前に出た。
ヘッドライトが顔を照らす。
白い。
異様なほど白い顔。
目元は影になっている。
男が車へ近づいてくる。
一歩。
また一歩。
悠斗がエンジンをかけた。
「行くぞ」
「待って!」
「無理!」
ギアを入れる。
アクセルを踏む。
しかし。
車が動かない。
「何で!?」
「ブレーキ!」
「踏んでない!」
エンジンは回っている。
タイヤも動いている。
なのに車だけが、地面に縫い付けられたように動かない。
男が近づいてくる。
あと十メートル。
五メートル。
三メートル。
そして。
運転席の窓の横で止まった。
悠斗は息を止めた。
男の顔が、窓ガラス越しに見える。
口元だけが、ゆっくり動いた。
「……通行料を」
声は小さかった。
けれど、四人全員に聞こえた。
直樹が震える声で言った。
「……いくらですか」
男は答えない。
ただ、車の後部座席を見る。
美咲。
沙耶。
そして。
もう一度、悠斗を見る。
「……四人」
男が呟いた。
「……四人分ですね」
その瞬間。
沙耶が叫んだ。
「違う!」
三人が振り返る。
沙耶は青ざめていた。
「違う……」
「何が?」
美咲が聞く。
沙耶は震えながら、後部座席を見つめている。
「私たち……」
「四人でしょ?」
「違う」
「え?」
沙耶は、車内を指差した。
「……五人いる」
誰も言葉を返せなかった。
四人しかいない。
悠斗。
直樹。
美咲。
沙耶。
それなのに。
車内の中央。
誰も座っていないはずの場所が――
ゆっくりと、
沈み込んだ。
まるで。
見えない誰かが、そこへ座ったように。
そして、耳元で。
知らない男の声がした。
「……一人、乗せてきたでしょう?」
午前零時十七分。
車のエンジンが突然止まった。
同時に。
料金所の男が、
笑った。




