9.震えた心が開くとき
ビクトリーノが食事に連れて行ったのは、大衆も利用するようなレストランだった。入口は大衆とは別になっており、案内されたのは二階だったがメニューは共通だと言う。
「食べに出ることはないのか?」
運ばれてきた料理を物珍しそうに見るマリアナに、ビクトリーノは尋ねた。
「お店も知らないので」
「外に出て、街を知ることも大事だな。今度、マヌエラにも言っておこう。元々は外出が好きだから、いろんなところに喜んで案内してくれるだろう」
「ありがとうございます」
食事を取りながら、街についてビクトリーノはあれこれと教えてくれた。簡単な地形から港、官公庁、職人街、組合の会館の場所など。
食事を終えると、そのまま歩いて港へ向かう。街路樹が整えられ、花模様のタイルの敷かれた道が美しかった。
潮騒と海鳥の鳴き声が聞こえてくると、ふと帝国へ行くときに出発した港は、どこだったのだろうと思った。ビクトリーノのように教えてくれるでもなく、ただただ命令されてついて行くばかりで町の名さえ知らずに通り過ぎた。
「馬車の方がよかったか?」
ビクトリーノが気遣うように聞いてきた。マリアナは微笑んで首を振る。
「いえ、美しい街ですから歩くのも楽しいです」
「海はもっと綺麗だ」
ビクトリーノは遠くを見つめ、心酔しているように言った。
確かに港は絵画のように綺麗だった。鳥が舞飛ぶ青い海と空を背景に、様々な形の船が停泊している。帆は大きく風をはらみ、色鮮やかな旗がたなびく。船からも桟橋からも、賑やかに歌が響いていた。
行き交う馬車も多彩で、マリアナは小屋のように大きな六頭立ての馬車を初めて見た。
空き店舗は、そんな港を見渡せる場所にあった。近くにはレストランや輸入雑貨、宿が立ち並ぶ。
「この辺りは貿易商に勤める人間が多いから、帝国仕込みの薬種に関心のある客が見込める。ウチの倉庫にも近くて、薬種の仕入れにも便利だろう」
ビクトリーノは、そう言って店舗にマリアナを入れた。
思っていたよりも大きく広い店舗だった。三人が余裕を持って立てそうなカウンター。テーブルセットを二組は置けそうなスペース。奥には在庫置き場、事務室の他、自由に使える小部屋まであった。
「どうだ? 広すぎるようなら、少し改装してもいい」
ビクトリーノは、そう言ったがマリアナは迷った。まだ、どんな店にしたいのか、イメージすら湧いていなかった。それに、節約できるところは節約したかった。改装するとなったら、いくらぐらいかかるものなのか。
ノックの音に目を向けると、若い紳士が入口から顔を覗かせていた。
「ゆっくり見ていてくれ。すぐ戻る」
ビクトリーノはそう言うと、紳士を伴い表へ出て行った。
ひとりになると、マリアナはカウンターの中に入ってみた。そこから店の中を見回す。
やっぱり少し広すぎるだろうか。もっとこじんまりとした空間でいい。
マリアナは薬種管理の調合をしていた部屋を懐かしく思い返した。五人ほどが働くのに十分な広さ。壁の二面に数多くの薬種がしまわれ、残りの一面に調合の道具。十人ばかりでハレム千人の健康、美容、そして……夜のための薬を扱っていた。
経理の雇い人は薬種にも詳しいのだろうか。自分ひとりで店に立つのなら、ここは広すぎ……。
入口で大きな音がして、マリアナはビクリと肩を跳ねた。顔を向けると見知らぬ男が戸口に立っていた。大柄な体格に、髪と同じくらい赤い顔をしている。漂ってきた酒のにおいに、マリアナの体は強張った。
「セ、セニョール……。ここは……」
マリアナは震える声を抑え、愛想よく言った。しかし、マリアナの言葉を遮ったのは耳にしたこともない言語だった。
男の顔に浮かんだ笑みに、マリアナの心臓は早鐘を打った。
見知らぬ言葉。酒のにおい。波音……。
男はろれつの回らない声で何事かわめきながら、よろめき歩いてくる。マリアナは体が硬直し、動けなかった。それなのに全身は震え、呼吸が浅くなる。
男がカウンターに入り込んできた。マリアナはなんとか足を動かし、じりじりと後ずさりながら自分を叱咤する。
――逃げて。逃げるのよ!
しかし、逃げ出す場所はなかった。カウンターの出入り口は男の向こう側。奥へ続く入口も、マリアナと男の間だった。
唇を噛み締め、涙を飲み込むと、マリアナは震える体を力いっぱい動かしてカウンターに上った。足を回し反対側へ降りよう急ぐ。だが、男がマリアナの腕とベールを掴んだ。
ベールを引っ張られ、頭から引きはがされる。
マリアナは全身が怖気立ち、反射的に悲鳴混じりの声で叫んだ。
「ごめんなさいっ。ごめんなさい!」
白い影が戸口から飛び込んできた。カウンターに飛び乗る勢いのまま男を蹴り飛ばす。潰れた悲鳴と鈍い衝撃音。
「外へ! 急げっ」
ビクトリーノの声に命じられ、マリアナはおぼつかない脚で走った。表へ出て強い日差しと潮風に吹かれると、体から力が抜けてしゃがみ込んだ。
そのまま小さくうずくまりかけ――脳裏に女官の声が響いた。
――顔は上げて話しなさい、マリアナ。これは淑女として最低限の嗜みです。
もう小さな子供じゃない……。マリアナは壁に手をついて、立ち上がった。まだ落ち着かない鼓動を、深呼吸を繰り返して鎮める。それでも震え続ける手で、落ちていたビクトリーノの上着を拾い上げた。
どれほど経ったか、ビクトリーノが表へと出てきた。集まっていた野次馬へ口早に指示を出すと、人混みをかき分けてマリアナに声をかけた。
「ケガは?」
マリアナは引きつった顔で笑みを作り、首を振る。抱えていた上着を差し出し、言った。
「大丈夫です。助けてくださり、ありがとうございました」
かすれた小声にビクトリーノの表情は曇ったままだった。口を開きかけたが周囲の視線に気づくと、礼を言って上着を受け取り、歩くように促した。
「ひとりにして悪かった。この辺りは、そんなに治安が悪い場所でもないから判断を誤った」
「いえ。考えて選んでくださった店舗でしたもの、気になさらないでください。それより服を汚してしまって、ごめんなさい」
「それより?」
ビクトリーノは驚いた声で言い、足を止めた。戸惑った様子でまじまじと見られ、マリアナは狼狽えた。なにか間違ったことを言っただろうか。ビクトリーノのシャツもズボンも埃にまみれ、灰色に汚れていた。
ビクトリーノは正面からマリアナに向き直り、言った。
「マリアナ。君が大変な思いをしたんだ。謝ることはなにもないし、そこまで自分を卑下することもない。気が治まるなら俺を責めてもいい」
「そんな。あなたを責めるだなんて。私は助けてもらえただけで感謝しています」
今度はマリアナが驚いて言った。ビクトリーノは考え込むように黙っていたが、声の調子を変えて口を開いた。
「これは、どうする?」
ビクトリーノが差し出した手の上には、マリアナのベールを飾っていた翠玉や水晶があった。
「直したいなら俺から職人に依頼しておこう。手放すのなら買い取るから、開業資金にでも充てるといい」
マリアナは直してもらって、また身に着けたいか考えて首を振った。
「買取を、お願いします」
ビクトリーノはうなずいて上着のポケットにしまうと、申し訳なさそうに付け加えた。
「店は別の場所を探す」
港を抜けて大通りへと出ると、ビクトリーノの馬車が待っていた。御者は二人を見て、一瞬、軽く目を見開いたが問いただすようなことはしなかった。ビクトリーノは馬車の扉を開けかけ、ふと思い直したように御者へ声をかけた。
「俺が操縦しよう」
戸惑う御者を下ろして馬車に乗せると、ビクトリーノは少年のような無邪気な笑顔でマリアナを御者台に誘った。気は進まなかったが、御者と二人で馬車に乗るのも気まずく、マリアナは恐る恐る御者台に上がった。
革張りの椅子にふかふかしたクッションが敷かれ、思ったより座り心地は悪くなかった。けれど、馬よりも高い視点に怖さが湧いた。
「速度は出さないから、しっかり足を踏ん張って手すりを掴んでいれば大丈夫だ」
ビクトリーノの力強い言葉にうなずき、マリアナは言われた通り、斜めに据えられた台に置いた足を踏ん張って、座席横の手すりを両手でぎゅっと握った。
ビクトリーノが声を上げ、手綱を振るう。馬はゆっくりと歩き出した。動き出しの衝撃にマリアナは小さく悲鳴を上げ、思わず目をつむった。動き出して速度が安定すると揺れは大きくなく、中の座席に座っているときと大差なかった。
「大丈夫か?」
楽しそうなビクトリーノの声。
かすかに潮の香が混ざる風が肌を撫でていく。
マリアナは、ゆっくりと目を開いた。目に入ってきたのは、流れていく遠い路面。背筋が凍り、また強く目を閉じる。
「下じゃなくて、上や前を見るんだ」
優しく言われ、マリアナは顔を上げてから薄っすらと瞼を開いた。馬の頭越しに大通りの真っ直ぐな道が見えた。道の両側に植えられたプラタナスが歩道に黒々とした影を投げかけ、灰白色の石畳とのコントラストで街を美しく飾る。車道にまで張り出していた大樹の脇を通りすぎると、手のひらのような葉の先が頭をかすめて、マリアナは思わず笑い声を上げた。
枝のトンネルをくぐるときに見上げると、陽光を透かした緑の葉がまばゆく輝き、翠玉の中を通っていくようだった。
帝都の煌びやかさにはかなわないが、オラ・レガーダにはオラ・レガーダの魅力があることに気が付いた。
大通りから小路に入ると建物が迫り、日陰の道になる。涼しい空気に息をつくが、石畳の荒れた場所では車体が大きく跳ねて、人や壁に当たりはしないかとハラハラした。
宿の前に到着すると、マリアナは少し残念に思いながら御者台から下りた。
「ありがとうございました。とても楽しかったです」
マリアナは頬を上気させた笑顔で、ビクトリーノと御者に礼を言った。
「たまに視点を変えると面白い発見があっていいだろう? 時間があるときは、街歩きもしてみるといい。宿に頼めば女中も付き添ってくれる」
ビクトリーノの言葉に、マリアナは御者台に乗せた意図を理解した。
――私が怯えて、閉じこもることがないように……。もしかして車内で二人きりにならないようにも?
マリアナはビクトリーノの心遣いに、感謝と同時に戸惑いを覚えた。知り合ったばかりなのに、どうして、こんなにも親切にしてくれるのだろう。開業をやめると言い出さないか、気にしているだけ?
マリアナは分からなかったが、あのとき助けに来てくれた行動は本物だった。助けなんて期待していなかったのに……。
マリアナは花のように微笑んで、答えた。
「はい。これから少しずつでも街のことを知っていきたいです」
ビクトリーノを見送って宿に入ると、マリアナは受付で明日の街歩きに付き添ってくれる女中を依頼した。




