8.新しい世界の入り口で
三日後、マリアナはビクトリーノから連絡をもらいバルデム商会へとやって来た。港近くに建つ四階建ての商館は緑の前庭が美しく、庭の中央では噴水が煌めいていた。
周囲の建物に比べてもずいぶんと立派で、小さな宮殿のようにも見えた。
ビクトリーノの乗っていた馬車が示していた通り、バルデム商会は大きな会社らしい。
マリアナは、もう少し着飾ってきてもよかったかしら、と自分の格好を確かめた。
落ち着いた深緑のゆるりとしたズボンに、深いスリットの入ったワンピース。長衣の上着には翡翠色の刺繍が施されている。日よけのためのベールは翠玉の髪飾りで留め、髪は緩く太い三つ編みにまとめるだけにした。
訪問先の格を見誤ったなんて知られたら、きっと叱られたわね。
マリアナは教育係だった女性の厳しい顔を思い出して、小さく息をついた。
――顔を上げて、笑顔を絶やさず、ハキハキと。
マリアナは胸の中で呟くと、金の三連腕輪をつけた腕でベールを整え、商館へと入った。
「こんにちは。お嬢さん。なにか御用でしょうか?」
ロビーの中に入ると、すぐさま受付から若い男性事務員が寄ってきて、愛想よく声をかけた。マリアナは花が開くように、ふわりとした笑みを浮かべて軽く膝を落とした。
「こんにちは。マリアナ・スリナーチと申します。ドン・ビクトリーノにご連絡をいただいて参りました」
「ドンに?」
事務員は笑顔のまま顔を引きつらせると、早口でマリアナにソファーを薦めて事務室と書かれた部屋に飛び込んだ。マリアナは言われた通り、ロビー横のソファーに腰かけようと向かいかけたが、腰を下ろす前に事務室から出てきた壮年の事務員に声をかけられた。
「セニョレータ・スリナーチ。ドンからお話は伺っております」
ビクトリーノは、いま打ち合わせ中のため応接室で待つように、と案内された。
ひとりになると、マリアナは出されたコーヒーを見つめた。ポルタベルタのコーヒーは濃厚に淹れて、たっぷりのミルクを注ぐ。帝国のコーヒーは香辛料を混ぜ、薫り高く煮出して飲んだ。
焼き菓子と一緒に置かれたコーヒーは黒く、甘みと香ばしさを感じる独特なシナモンの香りが漂っていた。
初めて後宮に入ったときに出されたのも、このシナモンコーヒーだった。
こんな風に豪勢な部屋で……。
マリアナは優美な曲線の脚を金細工で飾ったテーブルから目を放し、窓の外へと目を向けた。
通された応接室は池のある中庭に面していた。夏の花が咲き誇り、水面に反射した光を浴びてオリーブの白っぽい葉は白銀に輝いている。大きく開かれた窓と戸口から乾燥した風が入り込み、天井のシャンデリアが微かな音色を奏でた。
揺れる花を見つめていると、不意に扉が開いた。マリアナは我に返り、立ち上がった。
「ようこそ、セニョレータ。我がバルデム商会へ」
ビクトリーノが笑顔を見せて言った。
今日も上着を肩に羽織り、耳では蒼石の耳飾りが、指では印章指輪が光っている。違いは上着が黒っぽいことぐらい。しかし、漆黒ではなく動きに合わせて生地はわずかに赤紫を帯び、艶のない黒い刺繍が浮かび上がって見えた。
マリアナは手の込んだ作りに感心しながら、笑顔を作って膝を落とした。
「ごきげんよう。ドン・ビクトリーノ」
ビクトリーノの後ろから壮年の男性も続いて入ってきた。生地の質はよさそうだが簡素な装い。ビクトリーノは男性を紹介しながら席に着いた。
「薬種商たちとの取引を担当している、タデオ・コルテスだ」
「初めまして、セニョレータ・スリナーチ。これから、あなたの開業補佐をしてきますので、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。セニョール・コルテス」
「タデオで構いません」
タデオは事務的に言うとビクトリーノの隣に座り、手にしていた書類をテーブルにざっと並べた。
マリアナはハレムで受けていた授業を思い出し、気を重くしながら着席した。
開業までに必要とする準備・費用を、タデオは一覧にしてマリアナに説明した。すでにビクトリーノから聞いてはいたが、改めて具体的な数字を並べて見せられると、自分には無理なのではないか、と気後れした。
タデオの使う言葉すら時おり意味が分からず、これは本当に母語なのか疑問が湧いた。
「書類上の話は、これぐらいにして」
ビクトリーノは大きく手を打つと、立ち上がって言った。
「食事のあと、店を見に行こうか。いくつか商会所有の空き店舗を見繕っている」
マリアナはホッと息をついて、うなずいた。
タデオに礼を言うと、ビクトリーノの後について応接室を出た。
廊下に出ると数人の事務員が片隅で立ち話をしていた。彼らが視線を向けてきていたため、マリアナは微笑んで軽く会釈した。歩く先々で目が合ったり、目礼をされたりする。その度にマリアナも柔らかな笑みを作って、挨拶を返した。
けれど、内心では男性ばかりの環境に少し落ち着かない気分だった。
ハレムでの八年間、男性といえば宦官しか目にすることはなかった。彼らは、男性ではあっても、どこか物憂げで女性的な気配をまとっていたし、顔を合わせるのも月に一、二回だった。
ダシャの屋敷で世話になる間に、男性らしい男性にも慣れたつもりではいたのだが。
外へ出ると、思わずため息を漏らした。
「疲れたか?」
馬車を待つ間、ビクトリーノが聞いてきた。マリアナは笑顔を取り繕い答えた。
「耳馴染みのない言葉が難しくて」
「悪いな。本当なら今日、経理を担当させる雇い人も同席させたかったんだが、選定が上手く進んでなくて」
マリアナは驚いて首を振った。
「いえ、そんな。私が学ばなければならないことですから。お手を煩わせて申し訳ありません」
「……マリアナ。気概を持つのはいいが、なんでもひとりでこなそうとする必要はない。出来ないことは、出来る人間に任せることも商売を上手くするコツだ」
「出来ないことは、出来る人に……」
漆黒の馬車が入ってきて、二人の前で止まった。ビクトリーノは扉を開けて、マリアナに手を差し出す。そして、ニヤッと笑い言った。
「そう。君は馬車を操れない。だから、馬を操るのは御者に任せて乗っている。だろ?」
「はい」
マリアナは小さく笑って御者にも目礼すると、ビクトリーノの手を取り、馬車に乗り込んだ。




