5.差し伸べられた手
「一体、なにを言ってるんだ。あんたは」
トルドラと名乗った薬種店の主人は吐き出すように言った。応接室に案内したときの愛想は消え、顔には蔑みが広がっていた。
「突然、袖から飛び出してきたような素性もしれん女が、街で薬種屋を開きたいだと? 私らの商売を舐めてるのか?」
マリアナは膝の上で手を結んで、うつむきそうになるのを堪えた。心臓が脈打ち、声がかすれそうになる。
「決して軽く考えているわけでは……。私は、なにも知らないので教えを乞いたいと」
「お嬢ちゃん」
トルドラは薄く笑った。
「あんたの度胸は買ってあげるが、筋は通してもらわないとな」
「筋、というのは」
「商売ってのは、どこも組合が仕切ってるんだ。まずは薬種商グレミオに加盟している店で奉公修行して、それから独立するもんなんだよ」
マリアナは息を呑んで、目をしばたかせた。
「まあ、そうだったのですか。申し訳ありません。そのようなことも知らず、ぶしつけなことを申しました。それではグレミオを訪ねたら、よろしいのでしょうか?」
「そうだな……。しかし、誰からの紹介もない者を受け入れる店もありはせんよ」
マリアナは、やはり商売を始めるのは難しいのだ、と肩を落とした。頼れる誰かもいない街で、どうしたらいいのかと心細さが湧いた。
「まあ、条件次第では私が……」
「俺が紹介人になってやろうか、お嬢さん」
トルドラの言葉を遮り、不意に張りのある力強い声が部屋に響いた。
マリアナが驚いて振り返ると、いつの間に来ていたのか若い男性が扉口に立っていた。
銀糸で刺繍の施された鮮やかな青い上着を肩に羽織り、艶のある上質なリネンのシャツの袖を無造作にまくり上げている。黒髪からのぞく耳には大粒の蒼石がはめ込まれた耳飾り。右手の人差し指には金の印章指輪。
マリアナは目を丸くした。
――なんて……気障なの。
帝国の市場で、こういう男性には気を付けなさい、とダシャから教えられた人物そのままが、目の前に現れたように思えた。
「ドン・ビクトリーノ」
トルドラが口を開いた。少し強張ったような声に聞こえた。
「あなたが関わり合うようなセニョレータでは……」
ビクトリーノは、その言葉を無視して大股でマリアナに歩み寄った。マリアナは慌てて立ち上がり、軽く膝を落として挨拶をする。
ビクトリーノは笑顔を向けると、言った。
『お嬢さんは帝国から来たのかな?』
マリアナは表情を作ることも忘れてうなずいた。リーズと別れて以来、初めて耳にした帝国語だった。
『ええ、はい。生まれはポルタベルタですが、長く帝国におりました』
『二人の声が外まで聞こえていてね。薬種屋を開きたいんだって?』
『少しでも生活の糧になればと……。ですが、難しいようで』
マリアナは胸が詰まって、不意に涙が込み上げてきそうになった。
ひとりになってから、口にすることのなかった帝国の言葉。八年で身に馴染み、自分の言葉、世界になっていたのだと、いまさらながらに気づいた。
浅く息をして、引き結んだ口元を隠すように手を添える。
その手をビクトリーノの大きな手が、そっと握った。マリアナは驚いて見上げた。
『セニョレータ、商売の話は俺としよう』
深みのある茶色い瞳が微笑みかけてきた。
「トルドラ。悪いが今日の商談は延期だ。また後日伺う」
ビクトリーノはトルドラへ視線をくれることもなく言うと、握っていたマリアナの手を少し曲げた自分の肘に置いた。
手は自由に離せる。
それでもマリアナはビクトリーノに促されると、彼の肘に手を添えたまま歩き出した。
選択肢をくれた彼に賭けてみたいと思った。
「俺はビクトリーノ・バルデム。海運商をしている」
馬車に乗り込むとビクトリーノは言った。
軽い口調だったが、二頭立ての馬車は漆黒に金細工が施された立派なものだ。窓にはサテンのカーテンが下がり、座席に張られたベルベットも柔らかく滑らか。相当な資産があることは一目でわかった。
マリアナは、そんな人が、どうして自分に興味を持ったのか不思議に思った。
「私はマリアナ……スリナーチです」
父のナロス姓を名乗ることは躊躇われ、母の姓を名乗った。オラ・レガーダとバルフレードは離れているとはいえ、商人は地理に明るい。まだ過去の話を口に出来るほど整理はつけられていなかった。
「マリアナ。いい名だ。どうして薬種屋をしたいのか聞いても?」
「ずっと皇帝の後宮で薬種の管理に携わっていたんです。他に出来そうなこともないし、少しは知識が活かせるのではないかと思って」
向かいに座ったビクトリーノは、少し驚いたように眉を上げた。しかし、すぐに笑顔を戻して言った。
「皇帝のハレムに? それは、また……特別な秘薬がありそうだな」
「秘薬かは分かりませんが、入手が難しい素材もあるので特別ではあると思います」
「それを売りたい?」
マリアナは視線を伏せ、少し考えた。
ハレムで自分がしていたこと。ダシャや他の女官たちとの関わり。自分は、どんなことなら出来るか。
顔を上げると、真っ直ぐに視線を向けてきていたビクトリーノを見つめ返して答えた。
「私は求められるまま調合していました。作り置きしたものもありましたけど、ひとり一人の体調や求める効果に合ったものをお渡し出来たら」
「なるほど。入手が難しい素材があると言ったね。どんなものだ?」
マリアナは、いくつかの素材を挙げた。トルドラにも尋ねたが、滅多に手に入らないと言われたものもあれば、名すら知らないと言われたものもあった。仕方なく、手に入るものだけで調合できる薬を扱えれば、と薬種屋の開業方法を尋ね……手厳しく断られた。
「資金はあるのか? グレミオに加入出来たところで、先立つものがなければ満足いく商売は出来ないが」
マリアナは手につけていた少し大きめの指輪をはずし、ビクトリーノに手渡した。
「ハレムを出たとき、いくばくかのお給金を頂いたので工面できると思います」
資産のことは誰であっても正直に口にしてはいけない。ダシャから厳しく言われていた。それは――昔の経験からも十分に理解していた。
渡した指輪は手持ちの宝飾品の中で、一番安く買ったものだった。
ビクトリーノは指輪を確認すると、マリアナに返した。腕と足を組み、しばし窓の外へ視線を向けていたが、片頬を上げた笑みを浮かべるとマリアナを見て言った。
「翡翠草は確か王都の薬種商に卸した残りがあったはずだ。他のものも手配出来るだろう」
マリアナは静かに微笑み、うなずいた。
リーズと一緒に宝飾品や美術品を売買したとき、何度となく目にしていた。抜け目のない商人が商機を嗅ぎつけたときの表情。
不用意に近づけば食べられてしまう。
「ひとつ試験をしよう」
しかし、思いがけない言葉にマリアナは困惑した。
「試験……ですか?」
「知り合いの女性が夫との関係に悩んでいる。彼女の悩みを君の経験で解決してほしい。それが出来たら開業に必要なすべてのものを俺が用意しよう」
マリアナの脳裏にダシャの声が響いた。
――うますぎる話には注意なさい。狼は羊の顔をして近づいてくるのよ。
あまりにも都合がよすぎる。マリアナはビクトリーノの狙いが分からなかった。
「どうして……そんなご親切を?」
ビクトリーノは楽しそうに笑って答えた。
「俺は商人だ。得にならないことはしない。君のパトロンになることは俺に新しい富をもたらす。その可能性を感じただけさ」
どこまで本気か判断はつけられなかったが、ビクトリーノに賭けてみようとついてきたのだ。マリアナは緊張と不安を小さく吐き出し、うなずいた。
「お引き受けいたします」




