33.断ち切る言葉
マリアナはビクトリーノの手を離すと、前に進み出てスカートを軽く持ち上げ、膝を落として礼をした。そして、花が開くような微笑みを作って言った。
「お久しぶりです。叔父さま、叔母さま」
傷を負った頬から血を流した男は、ぽかんとマリアナを見上げた。
女は怪訝そうな目を向けたが、すぐに息を呑んで顔を強張らせた。
「あんた……まさか、マリアナ?」
妻の言葉に、男は大きく目を見開いた。マリアナは、あの日の、射るような琥珀色の瞳を思い出し、気持ちが怯みかけた。震えを隠すように手を結び、笑みを崩さずに答えた。
「はい。マリアナ・ナロス、ただいま戻りました」
名に反応し、傭兵たちに交じっていた領民がざわめいた。マリアナは彼らを見回し、真摯な面持ちで言った。
「カルレス・ナロスが娘、マリアナです。八年前、叔父に売られて国を離れていましたが、遅まきながら帰ってまいりました。これまでの所業、ナロスの後継者として心よりお詫び申し上げます」
領民は口を閉ざし、複雑な面持ちで目を交わし合った。代わりに声を上げたのは、傭兵の中に混じる領民とも兵とも違う様相の人々だった。格好はシャツに上着と中産階級のようであるのに、その顔つきは傭兵よりも剣呑で、商人のように抜け目のない目つきをしていた。
「ご令嬢。あんたがナロスの後継者だって?」
「正統な権利を持ってる、って言うのか?」
後ろで黙って控えていたビクトリーノがマリアナの耳元で告げる。
「金貸しの連中だ」
マリアナは矢継ぎ早に問いを投げかけてる金貸したちに、ふわりとした笑みを向けた。意表を突かれたように言葉が止む。
「十年前、私の父……先代の伯爵が亡くなり、唯一の後継者が私でした。けれど、私は幼く」
つと、マリアナは男へ視線を向けた。
「叔父が後見人となりました。彼らは八年前、私を国外へ売ることでバルフレードを簒奪したのです」
二人は憎々しげに顔を歪め、マリアナを睨みつけた。
「馬鹿なことを! 孤児になったお前の面倒を見てやっていたのに、お前が逃げ出したんだろう!」
「そうよっ。この恩知らず!」
「お前が逃げ出したがために、俺はナロス家の人間として」
「ナロスの名を名乗らないで!」
マリアナは男の言葉を遮って怒鳴った。男は唖然とし、マリアナも自分の声に驚いた。こんな一面が自分にあるとは思っていなかった。
けれど、この気持ちを抑える必要はあるのだろうか?
マリアナは深く息を吸い、顎を上げると冷たく男を見据えて言った。
「あなたは先々代から正式に勘当された身。私の後見人として選ばれたのが、そもそもの間違いだったのです。あなたにナロスを名乗る資格はありません」
不意に女が笑った。耳に障る甲高い声だった。
「正式な後見人に、なにを言っているの? あんたこそ正式な身分もないくせに、よく帰ってこられたわね」
「あ、ああ。そうだ。お前は行方不明となって、俺が王立裁判所令でバルフレードの管理を正式に請け負っているんだ!」
「あんたたちも、さっさと私たちを放しなさい! 救援要請は、とっくに出しているんだから、反逆者として国王軍に殺されるわよっ」
国王軍の名に領民たちの顔に不安が浮かんだ。マリアナも、そこまでの大ごとを、どう収めればいいのか分からず言葉が出てこなかった。
「さて、それはどうだろうな」
悠然とした口調で言ったのはビクトリーノだった。
不敵な笑みを二人に向けると、手にしていた羊皮紙を無造作に見せる。丸められた羊皮紙を止める赤いリボンには、王立裁判所の紋章が刺繍されていた。
「ナロス領バルフレードの領地管理権割譲書。王立裁判所、摂政官殿の署名付きだ」
マリアナは驚いたが、表情には出さず手を握り直した。あの日、ビクトリーノが正装していたのは領都の王立裁判所に……。
「まさ、か……。偽造だろう!」
「あっ、あんた、なんなのよ!」
二人は怯えたように叫んだ。その周りにいる捕らえられた私兵も表情を険しくした。逃げ出そうとした数人を傭兵が蹴りつけ、抑え込む。ビクトリーノは動じた様子もなく、おかしそうに声を上げると、言った。
「失礼した。自己紹介がまだだったな。俺はビクトリーノ・バルデム。しがない海運商だ」
「バル……ドン・ビクトリーノ・バルデム」
男は色をなくし、震える声で呟いた。私兵も金貸しも、領民さえ表情を変えた。
マリアナは、ずっとビクトリーノは自分の名を伏せて活動していたことに気づいた。それでもなお、領民の信用を勝ち得、頼りにされていた。一体、どれだけの時間、資金を費やし、彼らを支えてきたのか……。
「おいおい。連中が言ってたドンって、あんただったのか」
「バルデム商会が……正統後継者を手に入れた、ってことかよ」
金貸しの言葉に、人々の視線が一斉にマリアナへ向いた。
マリアナは一呼吸し、柔らかな笑みを浮かべて周囲を見回した。
「ドン・ビクトリーノの加護を受けて、私は、この地へ戻ることが出来ました。けれど、ご厚意に甘えているばかりでは、ナロス家当主としての責任を果たしたとは言えません」
マリアナは金貸しと思しき人間たちを見やり言った。
「この者たちの借財は、すべて私がお支払いいたします」
金貸したちの反応は様々だった。顔を見合わせる者、マリアナを値踏みする者、ビクトリーノへ視線を向ける者。
「全部だって? ドニャ、いくらかかるか知ってて言っているのかい?」
「ドン、あんたが保証してくれるってのか?」
金貸したちは疑わしげに言った。
マリアナは笑みを保ったまま、指先で胸元のネックレスに触れた。
「これは私が帝国から持ち帰ったものの一部です。ドン・ビクトリーノに、すべて買い取っていただき資金は作ります」
その言葉に合わせて、ビクトリーノは後ろに控えていた商会の事務員に合図をした。事務員は前に進み出ると、手にしていた金銀で飾られた宝石箱を開いた。事前にマリアナがビクトリーノへ手渡していた宝石箱だった。
ベルベッドの上に並べられた宝飾品の数々が、陽光を受けて鋭い光を放つ。
「どれも帝国の一級品だ。これは、その一部に過ぎない。ドニャ・マリアナには十分支払い能力がある」
金貸したちは色めき立った。すぐさま借用書を取り出し、迫ろうとする者もいた。傭兵がそれを制止し、ビクトリーノは事務員に手続きをするよう指示する。
「マリアナ。俺の姪よ」
喧噪の中、口を開いたのは男だった。引きつり歪んだ笑みを向けられ、マリアナはおぞましさに背筋が粟立った。
「お前は、なんていい子なんだ。こんな立派になって戻ってきて、後見人として誇らしいぞ。さあ、ほら、叔父さんを自由にするように言うんだ」
マリアナは媚びを滲ませた琥珀色の瞳を見返し、ハッキリと言った。
「あなたとの縁は、私が帝国に売られた時点で切れています。二度とソブリナなんて呼ばないでください」
男の歪んだ笑みは次第に怒りへ染まっていく。目を吊り上げ、頬を震わせながら歯をむき出す。その隣で女がひずんだ笑い声を上げた。空気を引っ掻くような声に、誰もが動きを止め、視線を向けた。
「ああ……、なんて素晴らしいの。マリアナ」
女の、ねっとりした棘のある声、ニヤニヤとした笑いにマリアナは体を強張らせた。
「領民も、さぞ誇らしいでしょうねぇ。新しい領主さまが……帝国の後宮で異人の慰み者だった淑女だなんて!」
「そいつを黙らせろ!」
ビクトリーノが怒鳴り、近くにいた傭兵が女を抑えつけて口に布を押し込んだ。同時に別の傭兵が夫の首元に剣の切っ先を突き付ける。
マリアナは、なにを言われたか理解できないまま呆然と事態を眺めていた。強く肩を掴まれ振り向かされる。ビクトリーノがなにか言っていた。口を動かしているが、言葉が音として耳に入ってこない。
マリアナは周囲へと視線を向けた。憐れみ、戸惑い、嫌悪、好奇――。
マリアナは向けられた眼差しに、自分が小さく小さく縮んで行くような錯覚を覚えた。無力だった頃の自分に引きずり戻されるような。
――ハレムの退職者は、高度な教育を受けた優良な花嫁候補で恥ずべき存在では……。そもそも私は陛下の顔すら見ることなく……。
そんな事実も無意味だった。ハレムが、なにを目的とした場所であるか教育を受けてきた自分が誰よりも理解していた。
――私は……。
「マリアナ!」
ビクトリーノが強く呼び、両手でマリアナの顔を包み込んで視線を合わせた。
けれど、マリアナの目は涙で滲みビクトリーノの表情はよく見えなかった。
「マリアナ。あんな人間の、君を傷つけ続けたやつの言うことに耳を貸すな。そんな価値はない」
マリアナは唇を震わせ、首を振った。雫が頬を伝い流れ落ちていく。
「私……私は売られたの。ハレムに……」
「マリアナ……、悪かった」
ビクトリーノは苦しそうに漏らし、言った。
「もっと早く教えるべきだった。君を傷つけたくなくて、言えなかった俺の責任だ。すまない」
力強い手が、そっとマリアナの涙を拭う。
「だけど、連中は誰一人として本当の君を知らない。君は自分の置かれた場所で精いっぱい、歩んできた。それが、どれだけ難しいことだったか、俺は知っている。自分の人生を誇れ。君には、それだけの資格がある」
迷いのない深みのある茶色い瞳。ポタベルタへ帰ってきてから、いつもそばにいてくれた。
――ビクトリーノは……初めから私がハレム帰りだと知っていたのに、私を私として扱ってきてくれた。
そんな彼に支えられて、私はここに帰ってきた。
溢れ出る涙を自分で拭い、息を整える。ビクトリーノは励ますように微笑みを見せた。
「顔を上げろ。君には、なにひとつ恥じるようなことはない」
そして、二人へと顔を向け、刺すような声音で言った。
「恥じるべきは、君を利用し、領民を搾取し続けた、あいつらだ」
マリアナも二人へと視線を向けた。
自分へ向けられる憎しみと怯えの混ざった眼差しも、もう恐ろしくはなかった。どれほど力を誇示しようが、彼らには心から支えてくれる人など誰一人いない。リーズの手袋を撫でると、彼らはなんてちっぽけな存在だろうと憐れみさえ覚えた。
「ドニャ・マリアナ・ナロス。君は二人を、どうしたい? 君が望むのであれば、後の処理は俺が引き受けよう」
ビクトリーノの言葉に、悲鳴を上げた男の口にも布が押し込まれた。
二人は揃って青ざめ、ガタガタと震えている。
マリアナは迷い――不意にマヌエラの言葉が思い出された。
――なにをしたかは聞かなかったわ。ろくでもないことに決まっているから。
世の中、知る必要のないことは多くある。
マリアナは領民たちに視線をくれた。固唾を飲んでマリアナの言葉を待っている。
――私は、私がなすべきことをするだけ。
二人を真っ直ぐに見据え、マリアナは宣言した。
「私は、彼らのバルフレード退去を求めます。方法はドン・ビクトリーノに一任いたします」




