31.装いの朝に
朝の歌が聞こえる――。
マリアナは小さく息を漏らして枕に顔を……温かく、固い感触。重たい瞼を持ち上げて、枕元を確認する。鎧戸から差し込んだ光は弱く、よくは見えなかった。リネンのカバーに手を這わせてみる。
すぐ近くで低い笑い声がし、枕が揺れた。驚いたマリアナは目が覚めて、枕ではなかったことを思い出した。
「おはよう、マリアニータ」
囁かれた声に見上げると、息遣いさえ感じるほど近くにビクトリーノの顔があった。
「お、おはようございます……」
マリアナは頬を染め、顔を隠すように上掛けを引き寄せた。
――暗くてよかった。
そう思ったが、ビクトリーノは軽くマリアナを抱き寄せると耳元で言った。
「眠れたか?」
ビクトリーノの胸に埋もれ、肌を撫でる声に鼓動が早まる。マリアナは小さくうなずいて、聞き返した。
「あなたは? ごめんなさい。ずっと私を抱えていたから……」
「船に乗ってたときは、立って寝ることもあったんだ。それと比べたら楽なもんさ。それに……一晩中、君の熱を感じていられた」
マリアナは自分が赤々と燃える薪になったような気がした。
「食事は取れそうか?」
胸の動悸で食欲があるかも分からなかったが、心配をかけたくなくてうなずいた。
「よかった。……今日は」
ビクトリーノの声に少しの固さが混じった。
「大変な日になるだろうから」
その言葉にマリアナは表情を硬くし、ビクトリーノのシャツをぎゅっと握る。その手を包み込むように、ビクトリーノは自分の手を重ねた。
「マリアナ、覚えておいてくれ。君はひとりじゃない。なにがあろうと俺はそばにいる。君が、すべての責任をひとりで負うこともない」
「……はい」
マリアナは手首を返し、ビクトリーノと手を握り合った。力強く、優しい手だった。
扉がノックされ女中の声がすると、マリアナは慌ててビクトリーノから離れて立ち上がった。ビクトリーノもおかしそうに軽く笑うと立ち上がって、女中に声をかけた。その足で窓まで向かい、鎧戸を開く。
秋をはらんだ爽やかな空気と眩い朝日が室内に満ちた。
「おはようございます。ドン、セニョレータ……」
扉を開けた女中は目を丸くしながら、二人を忙しく見比べた。マリアナは上掛けを掻き寄せ、恥ずかしさに固くなった笑みを返す。そこに歩み寄ったビクトリーノはマリアナの肩を軽く抱き寄せると、柔らかく頬にキスした。
マリアナの手が離れ、上掛けがはらりと落ちた。
「仕度を。朝食を取ったらすぐに立つ」
マリアナは返事も出来ず、扉へ向かうビクトリーノの後ろ姿を見つめた。頬がこそばゆく、指で触れても少しも感覚は弱まらなかった。
「マリアナの手伝いを頼む」
女中に言うと、ビクトリーノは部屋を出て行った。
頭を下げて主を見送った女中はパッと振り返り、好奇心に満ちた眼差しをマリアナに向けた。その目から逃れるようにマリアナは急いで言った。
「着替えを手伝ってもらえる?」
女中が暖炉の火を熾す間に、マリアナは荷物からドレスと化粧品を取り出した。
鏡の前に座ると目元を確認した。少しだけ腫れぼったくなっていたが、顔を洗った水の冷たさで落ち着いている。安堵して、髪の毛から整えた。
女中に手伝ってもらい、両サイドを三つ編みでまとめて後ろに垂らす。飾りは紅玉と翠玉で作られた薔薇のバレッタ。
目元は、緑みを帯びた金の瞳が映えるように、孔雀石を砕いたパウダーで縁取った。深い緑色の中に明るく艶のある緑が混ざる。口紅には深い赤。華やかさ、それに普段より力強く見えるように。
マリアナがメイクをすませると、女中はドレスを手に取った。
ビクトリーノから贈られた漆黒のドレス。
後ろから羽織らせてもらい、袖を通す。滑らかな生地は肌を撫でるように動き、前を交差させて隠しボタンで留めると、しっとりと皮膚に馴染んだ。しなやかさと温かさがあり、ビクトリーノに包まれているような安心感を覚えた。
揃いの生地で作られた幅広のベルトでウエストを締め、そこにスカートの後ろを飾るように黒いレースがつけられた。
ネックレスと耳飾りには、帝国の市場で購入した金剛石と翠玉のものを選んだ。帝国の職人がカットした金剛石は複雑に光を反射し、星を身に着けているようにも見えた。
前スカートの片裾にあるたっぷりとしたフリルを整えると、鏡越しにうっとりとマリアナを眺めながら女中は言った。
「お綺麗です、セニョレータ」
マリアナは微笑んで礼を言い、鏡の中の自分を見つめた。
――お母さまが着飾っていたことは、ほとんどなかったのに……。
自分に母の姿が重なって見える。手を伸ばして鏡に写った顔を指先で撫でた。微笑みを浮かべると、母に励まされているような気がして目頭が熱くなった。
――お父さま、お母さま。マリアナは、いまから帰ります。どうか……。
震える息を吐き出すと、鏡の前から離れて朝食を口にした。時間が迫っていると伝えにきた商会の事務員の声に急かされ、食べられるだけ食べた。
そして慌ただしく宿を出発した。
「よく似合ってる」
ドレスを見たビクトリーノは少し驚いた表情を見せたが、馬車が走り出して落ち着くと微笑んで言った。マリアナもはにかんで答えた。
「ありがとう。このドレスが相応しいと思ったの」
マリアナはリーズの手袋をつけた手で、ビクトリーノと手を繋ぐと窓の外へと視線をくれた。町を抜けて山間へと入っていく。
故郷の地――バルフレードへ。




