30.帰郷前夜
馬車は何度も馬を変え、一昼夜を駆けた。夜も止まることはなく、揺れる馬車の中で眠った。日が上っても走り続けた馬車が、ようやく停車したのは空が夕日に赤く染まる頃だった。
ナロス領バルフレードの手前にある小さな町。ここから屋敷までは、急がずとも馬車で半日とかからない距離だった。
かすかに記憶のある町並みに、マリアナは外を見られなくなった。両親が健在だった頃からバルフレードを出ることは少なく、最後に通ったのは帝国へ向かうときだった。
見知らぬ男と二人きり。どこへ連れて行かれるのかも分からず、恐怖し怯えていた――。
あのときの感覚、記憶が鮮烈に思い出され、息が浅くなる。
不意に肩に触れた感触に身をすくめ、小さく悲鳴を上げた。強張らせた顔を向けると、ビクトリーノが驚いた顔で見ていた。
「ごめ……んなさい」
ビクトリーノは首を振ると、優しく言った。
「疲れたんだろう。今夜は宿に泊まれるから、ゆっくり休むといい」
馬車から下りると、後続の馬車に乗っていた女中を呼んでマリアナの世話を命じた。マリアナは女中に手を取られ、用意されていた部屋に上がった。
計画の打ち合わせがあるから、とビクトリーノは宿を離れ、マリアナは女中と二人で夕食を取った。港町のオラ・レガーダとは違う食材。内陸の肉や野菜。塩とハーブの質素な味つけ。
どれも――懐かしい味だった。
口にすると感情が込み上げてきて、喉を通らなかった。食べなければ明日に障る。そう言い聞かせて口に運んだが、半分は残してしまった。
食事を終えると、休みたいから、と女中を隣の部屋に帰した。
ひとりになると暖炉の前に体を丸めて座り、ぼんやりと炎を見つめた。あの頃……叔父夫妻から使用人のように扱われていた子供の頃のように。
薪が燃え尽き、炎が小さくなるとベッドに入った。膝を抱え、小さくなって目を閉じる。
近くの酒場から笑い声と歌声が聞こえていた。
不意に胸が締め付けられ、涙が溢れた。両親が亡くなってからのこと、帝国へ売られるまでの日々、後宮での生活。様々な出来事が浮き上がっては消え、また現れた。
窓を覆う鎧戸の隙間から、月の光が差し込み始めた頃。
廊下からビクトリーノの声が聞こえた。マリアナは反射的に跳ね起き、ガウンも羽織らず裸足のまま扉へ駆けた。扉を開いたところで別人の声が響く。その声音で我に返り、廊下へ出るのを踏みとどまった。
扉を閉めると嗚咽が零れた。その場でしゃがみ込み、崩れてしまいそうになる体に腕を回す。
――こんなことではダメ。なんのために戻ってきたの?
何度、自分を叱責しても涙は止まらない。領民のため、責任を果たすため、ナロスの名誉を回復するため。そう言い聞かせても、自分は無力な人間だと否定する声があった。
「マリアナ」
扉の向こうからビクトリーノが呼んだ。マリアナは唇を噛み締め、声が漏れ出さないようて手を口元を覆った。
「俺以外、誰もいない」
ビクトリーノも疲れているのに、これ以上の迷惑をかけたくなかった。彼の言葉に立ち上がりそうになるのを、心の中で叱責して堪える。
――これは私の問題。私が自分で解決する問題。
繰り返し、言い聞かせた。
「マリアナ……。君が開けないなら、力ずくでも開く」
有無を言わせない静かな宣言だった。
涙が止めどなく頬を伝い落ちる。
マリアナはしゃくり上げ、ゆっくりと立ち上がった。扉を開くと、息を呑んだビクトリーノに強く抱き締められた。
「ごめ……んな、さい」
「言っただろう。俺は君を支えるために、ここにいる」
ビクトリーノは部屋に入ると、扉を閉めた。
ビクトリーノに抱き締められたまま背中を優しく撫でられ、マリアナの気持ちも少しずつ落ち着いていった。
「ごめんなさい……。あなたも休んでいないのに」
細かくしゃくり上げながら、マリアナは言った。
「謝らなくていい。こんな形で戻ることになったのは俺の責任でもある」
ビクトリーノはマリアナの涙を指先で拭い、そっと額にキスした。それから消えかけていた暖炉に薪を足し、炎を強くする。部屋が明るく照らし出された。
「休めそうか?」
マリアナの顔にかかった髪を耳にかけながら、ビクトリーノは尋ねた。
マリアナはうなずきかけたが、再び涙が込み上げてきた。首を振ってビクトリーノのシャツを掴むと、広くしっかりとした胸に顔を埋めて肩を震わせた。
「ごめんな、さい……。ダメだと……わかって、るの。自分で、これは……私の責任だ、と。しっかり、しなきゃっ、って」
「マリアナ」
ビクトリーノはマリアナを抱き締めると、子供をあやすように背中を軽く叩きながら柔らかく言った。
「マリアナ・ナロス。君が正統な後継者として責任を果たそうとするのは立派だし、俺は惜しみなく、その手伝いをしたいと思っている。けど……」
そして、マリアナの顔に手を添えて優しく上を向かせると、緑みを帯びた金の瞳をしっかりと見つめて続けた。
「マリアニータ。君自身も被害者の一人であることを認めてほしい。自分も、領民も、家も守れなかったことを責める必要はない。もし、いま目の前に君と同じ境遇の十四歳の女の子がいても、責任を果たせ……とは言わないだろう?」
マリアナは大きく顔を歪ませた。喉が震え――声が溢れ出した。
ビクトリーノの胸の中で子供のように泣いた。
暖炉の前に置かれた木製の長椅子は、窓の隙間から入り込む夜気を拒むように高い背もたれがついていた。ビクトリーノはベッドから運んだ毛布と枕で座り心地を整えると、上掛けをまとったマリアナに手を差し伸べた。
「おいで」
冷えていた空気は暖炉の放つ熱で温まっていた。
歩み寄ってきたマリアナを、ビクトリーノは上掛けに包んだまま赤ん坊を抱えるように抱いた。マリアナはビクトリーノの肩に頭をもたれかけ、泣きはらした目をゆっくりと瞬かせた。
マリアナはかすれた声で呟いた。
「ビクトリーノ……歌って」
「おやすみ、マリアニータ」
静かに、低く、ビクトリーノは子守歌を歌った。マリアナは上掛けから出した手をビクトリーノの体に回し、熱を感じるように体を密着させる。
さざ波のような声と温もりに抱かれて、マリアナは目を閉じた。
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残り5話(全35話)で完結を迎えます。
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