29.覚悟が動き出す朝
ナロス領バルフレードへ向かう。
マリアナはビクトリーノから共に行くか、と問われた。計画は最終段階に入り、決行が迫っている。
マリアナは考えるまでもなくうなずき、その足で屋敷へと戻った。
仕度を整え、翌日、出発したのは夜明け前の薄暗い時間だった。いつもの馬車より一回り大きな四頭立てが二台。漆黒の馬車は切り取られた影絵のようだった。
乗り込むと内部は深みのある赤で統一され、快適に過ごせるよう調度品も設えられていた。
「ほとんど寝ていないだろう? 馬を変えるまで眠っているといい」
隣に座るビクトリーノは気遣ったが、マリアナは礼を言っただけで窓の外へと目を向けた。
眠れなかったのは確かだが、緊張のためか眠たくはなかった。
オラ・レガーダに……国に帰ってきて、もうすぐ三カ月になろうとしていた。その間、一度も街から離れることはなかった。母国ではあっても、オラ・レガーダは見知らぬ街。
いまが本当の意味での帰郷なのかもしれない……。
マリアナは流れていく景色を見つめながら、膝の上で手を握り締めていた。
空が明るさを増し、太陽が地平から完全に顔を出した頃、途中の村に停車した。待ち構えていた馬丁たちが素早く疲れ果てた馬たちを馬具から外し、新しい馬と入れ替える。商会の事務員と屋敷の女中を乗せた、もう一台も含め、わずかな時間で作業を終えると馬車は出発した。
用意されていたバスケットに詰め込まれた簡単な料理で、軽く朝食を取る。互いにほとんど口を利かず、黙々と食べた。
揺れるグラスからワインを一口含む。屋敷での朝食を思い返すと小さな息がこぼれた。
再度の馬替えと短い休憩のあと、馬車は森林地帯に入った。すでに森の一部では木々が紅葉を始め、赤みがかった葉や黄色く色づいた梢が見えた。木漏れ日が空気を柔らかく包み、鳥のさえずりが響く。
少し開いた窓から流れ込む清廉な風に肌を冷やされ、ようやく気持ちも凪いできた。
マリアナが視線を向けると、前を向いていたビクトリーノも、すぐに気づいてマリアナを見た。
「教えていただけますか? いつから……私がマリアナ・ナロスだと知っていたのか」
ビクトリーノは表情を固くし、視線を泳がせた。言葉を発するのを躊躇うように幾度か口を動かしたが、すがるような眼差しをマリアナに向けるとおずおずと答えた。
「気づいたのは……君が倒れた晩。昔の話を聞いたときだ。正統な後継者がいることは分かっていたが、ずっと……調べることはしなかったから、スリナーチ姓を名乗っていた君のことだとは気づかなかった」
マリアナは息をついた。初めから仕組まれた出会いだった、と疑ってはいなかった。それでもビクトリーノから直接聞けたことに安堵した。
「屋敷に来るように言ったのは……」
「それは君の体調が心配で!」
ビクトリーノは即座に言ったが、すぐに口ごもった。自分の膝を握り、うつむいたかと思うと、うなだれた犬のような面持ちで続けた。
「離したくなかったんだ……君を。そばにいてほしかった」
マリアナは窓の方へと顔を向けて、表情が緩みそうになるのを堪えた。
この人も同じだった。私が嘘をついてでも離れたくないと思ったのと同じように。
――私のことを思ってくれていた。
それでも、すべてが決する前に計画のことを打ち明けてくれたことが、なにより嬉しかった。
ビクトリーノの思いを噛みしめてから、マリアナは気持ちを切り替えてビクトリーノに向き直った。
「バルデム商会は、どれほど大きくても民間の一商社にすぎません。没落したとはいえ、貴族の領地を取得することが出来るものなのですか?」
ビクトリーノは一瞬バツの悪そうな顔を見せ、曖昧に言葉を濁した。
「まあ……方法は、ある。元々、正統な後継者でもない上、国への税金も滞納していたから」
最後の言葉に思わず表情を険しくし、マリアナはため息を漏らした。
八年経っても自分がいた頃と、なにひとつ変わっていないようだった。
――お父さまは、どれほど苦労しても貴族としての矜持は失っていなかったのに。
マリアナは躊躇いがちに、ビクトリーノへ尋ねた。
「いま、バルフレードは……どうなっているのですか?」
ビクトリーノは心配そうにマリアナを見やり、一瞬、手を動かしかけた。しかし、膝に置いたまま感情を込めない声音で話し出した。
「七年前……。俺が陸に戻ってきた頃、バルフレードは銀山開発に成功して潤っていた」
領主となった男が古い銀山跡を調査し、新しい鉱脈を発見した。バルフレードは繁栄し、かつての賑わいを取り戻す勢いだった。だが、それも二年ほどで掘り尽くした。
男は新たな鉱脈探しに資金を投じ続け、土地の荒廃が進んだ。
悪いことに鉱山目当てに気の荒い連中も集まり、居座り続けた。
一部は男の私兵となり、領民たちを……脅かした。
「なんてこと……」
マリアナは身を固くし、声を震わせた。
自分が叔父夫妻から受けてきた記憶が蘇り、心がざわついた。けれど、きっと領民は、それよりも悲惨な扱いを受けている。誰も救う人がいないまま。
「マリアナ……」
ビクトリーノが気遣うように肩に触れてきた。
マリアナはビクトリーノの手を取って握り、乱れかけていた呼吸を整える。最後に深く深呼吸し、言った。
「続けてください」
「一度に聞く必要はない。つらくなったら言ってくれ」
ビクトリーノはマリアナの手を優しく握り返し、続きを話した。
バルフレードからは領民の流出が相次ぎ、衰退の一途を辿った。残った領民には重税を課し、私兵に取り立てさせた。その私兵に領地の一部を分け与え、そこを根城に私兵は野盗まがいなことも始めた。
一部の街道まで治安が乱れ、バルデム商会は他の商会と協力して自警団を送った。
その過程でバルフレードの状態を知った。
「ちょうど……事業のための土地を探していたときだった」
ビクトリーノは躊躇いがち言ったが、マリアナはビクトリーノに見つけてもらえたことに感謝すらしたかった。
バルデム商会は独自に傭兵を雇い、バルフレードへ送り込んで調査した。領民の鬱憤は溜まり、いつ爆発しても不思議はなかった。そのまま傭兵に領民を保護させ、同時に――懐柔、組織化を図った。
「蜂起のための……」
マリアナの呟きに、ビクトリーノは表情を固くしうなずいた。
マリアナは、幾度目かのため息をついた。
昨日、話を聞いたときは、これほどまでとは思ってもいなかった。嫌悪というには、あまりに軽い。憎しみとも言い難い。
――帝国に売られたことで……私は命拾いをしたのかもしれない。
皮肉な考えは、逃げられなかった領民の辛酸を一層、強く思わせた。
「蜂起は……領民は」
マリアナは気持ちが乱れたまま口にした。ビクトリーノはハッキリと答えた。
「組織は作っても、領民は訓練された兵じゃない。前線に立つ傭兵や自警団は送り込んでいるから、犠牲は……ほとんどない。それでも彼ら自身を立たせる必要があった。統治者が誰であれ、そこに暮らし、産業を営むのは彼ら自身だから」
マリアナはビクトリーノを見つめた。
ドン・ビクトリーノの迷いのない瞳。
マリアナは、その思いに背中を押されるように心を決めた。
「ビクトリーノ。お願いがあります」
向かいの座席に詰んだ自分の荷物を示し、声を強くして言った。




