28.静かな日々の終わりに
朝。マリアナが起きたときには、もうビクトリーノはいなかった。日も昇らないうちに出かけたと、使用人から教えられた。
屋敷へ来て以来、ビクトリーノと朝食を共にしなかったのは初めてのことだった。がらんとした食堂が、やけに広く見えた。
マリアナは組合の総会前日、ビクトリーノが血相を変えて仕事に向かったことを思い出した。あのとき限りのことではなく、ずっと問題が続いていたのだろうか? 夜中に出かけているのも?
そうだとしたら、毎日、朝食に間に合うように帰ってきてくれて……。
マリアナは、昨夜の誤解を改めて恥ずかしく思った。ビクトリーノを疑い、身勝手に感情をぶつけた。
仕事とはいえ、連日のことにビクトリーノの体調も心配になった。
――私にも、なにか手伝えることがあればいいのに。
商会に着くと、やけに人の出入りが多かった。祭り《フィエスタ》直後よりも頻繁で、商人と思えぬ様相の人もいた。どこか商館全体が浮足立っているように感じられ、マリアナは戸惑った。
「なにかあったの?」
ソニアに尋ねてみたが、彼女も知らない様子だった。
「裏で進めていることに動きがあったのかもしれませんね」
「裏?」
ソニアは周囲に目を配り、小声で耳打ちした。
「王都で暮していたときから、バルデム商会の名は耳にしていました。貴族や王立裁判所の職員に、陰で接触しているとか。それで縄張りを荒らされるんじゃないかと危惧した、王都の商会が……。そんな不穏な噂がありました」
もしかして、とマリアナはマヌエラの夫のことを思った。あの愛人騒動も、それがきっかけだったのだろうか。
「あまりセニョレータは関わりにならない方がよろしいですよ」
ソニアの推測が正しければ、確かに自分が関われることではない。そう理解はしても、自分にはビクトリーノを支えることが出来ないのだと空しく思った。
仕事を終えて屋敷に戻ってもビクトリーノは帰ってきていなかった。夕食になっても、夜が更けても帰ってこなかった。
マリアナは窓辺に座り、月が昇り、頂点を過ぎ、傾いていくまで波音を聞いていた。
「セニョレータ。ドンがお呼びです」
翌日、商会の事務員が店舗へマリアナを呼びに来たのは昼を過ぎた頃だった。マリアナは、あとのことをソニアに任せると迎えの馬車で商会に戻った。
一日半ぶりにビクトリーノと会える。その嬉しさより心配の方が勝っていた。ビクトリーノが、こんな風にマリアナを呼び出すことなど一度もなかった。
案内されたのは、商館の執務室だった。
「ドン。セニョレータ・スリナーチをお連れしました」
事務員がノックして声をかけると、一瞬の間があって返事があった。
「ああ……。入ってくれ」
事務員に礼を言うと、マリアナは緊張しながら中に入った。
初めて入った商館の執務室。屋敷の執務室とは、ずいぶんと違った。本や書類は多いが、屋敷にはなかった高価な品がふんだんに飾られている。絵画、彫刻、金細工の飾り棚、ガラスの置物、織物、陶器、そして……モザイクタイルの鮮やかな、ニワトリ。
マリアナは目を見張り、息を呑んだ。
――よくある置物よ。
動揺を抑えてニワトリの置物から目を引き剥がし、ビクトリーノへ視線を向ける。
深みのある茶色い瞳を目にして、どきりと身がすくんだ。
そこにいたのは、海運商ビクトリーノ・バルデムだった。感情を隠し、粛々と物事を運ぼうとする。
マリアナは彼の名を呼べず、無言のまま膝を落として礼をした。
「座ってくれ」
ビクトリーノはソファーを示すと、固い声音で言った。そして自分も執務机から立ち上がってくる、マリアナの向かいに座った。
マリアナは出会った日のことを思い出した。けれど、あのときのビクトリーノには気安さがあった。いまは……見知らぬ人のようだった。
ビクトリーノは無言のまま、マリアナを見つめていた。マリアナも正面から見つめ返した。
隠そうとしているが、ビクトリーノは、ひどく緊張しているように見えた。肩が強張り、両手は固く握り締められている。瞳の中に滲むのは憂い、だろうか。
マリアナは、ビクトリーノを慰めたくなった。
ビクトリーノの視線が揺らぎ、マリアナから目をそらした。
「なにか、あったのですか?」
マリアナは静かに尋ねた。
ビクトリーノは握っていた手を、さらに強く握り込み、わずかに表情を険しくした。
口を開き、一度は声を発しかけた。しかし、それを飲み込み、逡巡を見せたあと、強く息を吐き出してゆっくりと言った。
「君に話さなければならないことが、ある」
正面を向いたビクトリーノの瞳に怯えが潜んで見え、マリアナも湧き起こった不安に膝の上で手を結んだ。
「バルデム商会は、いま一つの計画を進めている。君にも……関わることだ」
「私にも?」
マリアナは店や薬種商グレミオのことかと思った。しかし、繋がりが分からず困惑した。
ビクトリーノは大きく喉を動かし、ゆっくりと言った。
「マリアナ……ナロス」
低く、苦々しい囁き。
マリアナは体を強張らせた。ナロスの名は、ビクトリーノに伝えてはいなかったのに……。
無意識に、鮮やかなモザイクタイルのニワトリへと視線を動かした。
ビクトリーノは眉間の皺を深くし、絞り出すように言った。
「君の……君が受け継ぐはずだった、ナロス領バルフレード。その取得を計画している」
マリアナは、世界が止まったような気がした。
ずっと目を背けてきた故郷バルフレードの風景が、まざまざと思い起こされる。
美しい山と谷。冷涼な風。乾燥した土のにおい。……荒れ果てた農地。打ち捨てられた家屋。貧困と重税にあえぐ領民の厳しい眼差し。
――私を捨て、私が……捨ててきた、ふるさと。
かすれた声で尋ねる。
「取得……とは?」
しかし、胸に渦巻く郷愁と恐れに思考が潰され、ただ反射的に出てきただけの言葉だった。鼓動が早まり、耳の奥で響いていた。
「マリアナ、俺は……」
ビクトリーノは悲痛に言いかけた言葉を飲み込んで、一つ深呼吸をすると、淡々とした声音で語った。
バルデム商会は新しい事業のために土地を探していた。オラ・レガーダから近く、広い農耕地があり水利の整っている。そして、出来るだけ費用を抑えられる土地。
目をつけたのがナロス領バルフレードだった。
オラ・レガーダから五日。没落して以降、領民の流出が相次ぎ農耕地も多く放棄されていた。谷間の領地は水に恵まれ、破損した水路を直せば十分に使える。
なにより――。
「統治者が領民に憎まれている」
その言葉にマリアナはびくりと体を揺らした。
悪魔のように笑う二人――叔父夫妻。親族でありながら、虐げ、物のように扱われてきた日々。挙句の果てに帝国のハレムへと送り、帰る家を、故郷を奪った。
ずっと忘れようとしてきた。思い出すことすら拒んできた。なのに、昨日、別れたかのようにハッキリとした面影となって、記憶の底から現れた。
手が震え、息が浅くなる。
「マリアナ、すまない」
ハッとしてビクトリーノは立ち上がると、マリアナのそばへ来た。床に膝をついて、強く握られていたマリアナの手に、自分の手を重ねる。
心配そうな眼差し、触れ合った少し冷えた大きな手の存在が、落ち着きを取り戻させた。
――彼は、なにも変わっていない。私は、もう……一人じゃない。
その事実に安らぎを覚えた。
深呼吸を繰り返して、息を整える。ビクトリーノを促して話の続きを求めた。
「ずっと、領民の支援をしてきた。情報を流し、組織を作り、物資を融通し……蜂起するための」
ビクトリーノは耐えられなくなったように顔を歪めると、マリアナの手を離して立ち上がった。
「すまない……。俺は君のそばにいていい人間ではなかった。いままで……卑怯な真似をしてきた」
青ざめた顔。泣き出しそうなほど悲壮感に溢れた瞳。そこにオラ・レガーダを牛耳る海運商のドンはいなかった。
「だけど、信じてほしい。俺は君を利用しようとして近づいたわけじゃ……」
マリアナは息を一つ大きく吐いた。その響きにビクトリーノは言葉を失い、呆然と立ち尽くした。
マリアナは、もう一度、モザイクタイルのニワトリへと目を向けた。色鮮やかなタイルは光を浴びて、艶やかに輝いている。父の書斎で最後に目にしたのは、いつだっただろう。
忘れてしまった。けれど、埃にまみれ、くすみ、寂しく見えたことは覚えていた。
どう考えたらいいのか、混乱がないわけではなかった。
ただ――。
ゆっくりと立ち上がると、ビクトリーノと視線を合わせて尋ねた。
「事業の目的を聞いても?」
「……綿花や薬種の栽培」
叱られた子供のように、ビクトリーノは小さく答えた。
――ああ、だから……。
店舗の中庭を薬草園にしたらいいと提案されたこと、希少な薬草の種や苗を持っていたこと。それらが腑に落ちた。ビクトリーノは品物を動かすだけではない。常に次を見据えて、考え、計画を立て動いている。
オラ・レガーダの人々に対する思いも、一方的な奉仕ではない。商会と共に発展、成長することを願っている。
――そんな人だから、私は……。
ビクトリーノの手を取り、握り締められていた拳を開いて手を繋ぐ。
「あなたがそばにいてくれたこと、私は嬉しく思っています。話を聞いても、その気持ちに変わりはありません」
「マリアナ……」
「私は……」
マリアナは、まとまらない考えの中から少しずつ言葉を探し出して言う。
「商会の計画について、口出しするつもりはありません。領民の選択は……当然のものだと思います。商会の手段も妥当な選択だと考えます」
ビクトリーノは驚いたように目を見開いた。
マリアナは、ふわりと笑んだ。そして、表情を切り替えると真摯な面持ちで言った。
「けれど、私は……私の責任を果たすべきだと思いました」




