27.痛みの先で見える現実
「どの本?」
図書室に移動するとビクトリーノは尋ねた。マリアナは深く息を吐き出すと、握り締めていた手をほどき、ゆっくりと本棚の一角を指し示した。
「あそこにある物語の……一番、読まれていた」
ビクトリーノは軽く息を呑むと、足早に本棚へ向かった。マリアナは、その様子に気持ちが沈んでいった。
ビクトリーノは、マリアナに確認することなく迷わず手紙の挟まった本を選び、引き出した。そして、表紙を大切そうにそっと撫でた。本が開かれ、封筒を手にする。ビクトリーノは柔らかな表情を浮かべた。温かな、そして愛おしそうな眼差し。
マリアナは込み上げてきた悲しみに胸を抑え、視線をそらした。
――もう……ここにはいられない。ビクトリーノの心には、別の人がいる。どれほど恋焦がれても、そ
こに私の居場所はない。
その事実が痛いほど伝わってきた。
「マリアナ」
ビクトリーノの呼びかけに、マリアナは深呼吸し顔を向けた。これまでの親切には報いなければならない。
ビクトリーノは嬉しそうな、幸せそうな笑顔を見せて言った。
「ありがとう、見つけてくれて。こんな手紙があるなんて知らなかった」
――顔を上げて。笑顔を絶やさず、ハキハキと……。
最後なのだからしっかりなさい。
マリアナは、そう自分に言い聞かせて精いっぱいの笑みを浮かべた。
ビクトリーノは、マリアナに歩み寄るとギュッと抱き締め言った。
「マリアナのおかげで、久しぶりに両親と会えた」
思いもしない言葉。
マリアナは呆然として、ビクトリーノを見上げた。ビクトリーノはマリアナの手を取ると、並んでソファーに腰かけた。そのままマリアナの体に腕を回し、身を寄せて手紙を広げた。
「これは結婚する前に、お袋が親父に宛てた手紙だ。親父も、ずっと船に乗っていたから……」
「お母さま、の……? でも……ビト、と。あなたの……愛称でしょう?」
混乱したマリアナの言葉にビクトリーノは笑った。
「ああ、そうだな。そして、親父の……ビクトル・バルデムの愛称でもある」
「あ……」
マリアナは理解して顔を赤くした。勝手に手紙を見た挙句、勝手に思い込み、勝手に絶望し、ビクトリーノを疑った。そのことが恥ずかしくてたまらなかった。申し訳なくて、泣きたくなる。
「あの、ごめんなさい。私……」
どう謝ればいいのか言葉を探しあぐねるマリアナのこめかみに、ビクトリーノが軽くキスした。
「謝ることはない。マリアナが見つけてくれなかったら、俺はずっと手紙のことを知らないままだった」
ビクトリーノは本棚へ視線を向けて言った。
「あれは、お袋が読んでいた本なんだ」
ビクトリーノは遠くを見つめ、独り言のように話し出した。
「お袋は、俺が五つのときに死んだ。病死だった。……たぶん。子供過ぎて、よく覚えていないが」
ビクトリーノの父は結婚してからも船に乗っていたため、幼いビクトリーノは母親の妹に預けられた。それがマヌエラの母親だった。
ビクトリーノはマヌエラと共に育ち、父親とは数年に一度会うだけの関係だった。
「船乗りにだけはならない。そう思ってたよ」
ビクトリーノは笑って言った。そして、少し寂しそうに続けた。
「十四のとき、親父も死んだ。船が嵐に遭って。帰ってこなかった」
マリアナは自分の両親を思い胸を痛めた。
この人も両親を早くに亡くしていた。その傷を抱えていたから、家族のことを……過去のことを尋ねてくることがなかったのだと思い至った。
マリアナはビクトリーノに握られた手を、そっと握り返す。ビクトリーノは微笑みを向けて続けた。
バルデム商会を立ち上げたのは、ビクトリーノの父親だった。ビクトリーノは十四で商会を率いることになった。
右も左も分からない子供に船乗りたちは従わない。このままでは商会が壊れる。父親がビクトリーノに残した唯一の、そして最大の贈り物が。
ビクトリーノは船に乗ることを決めた。共に暮らし、共に苦労し、共に喜ばなければ商会を率いる資格は得られないと思った。
マリアナは意外な思いで聞いていた。船乗り時代の話は刺激的で、ビクトリーノは楽しそうに懐かしそうに語っていた。だから、船が好きで乗ったのだと思っていた。
「七年乗っていた。すっかり自分は船乗りとして生きて行くんだと思うようになっていた」
ビクトリーノは目で問うようにマリアナに笑いかけた。マリアナは以前の話を覚えている、とうなずき返した。
「マヌエラに叩かれて、商会の仕事を本格的に始めた。仕事が上手く回るようになって、屋敷を建てたとき……叔母のところに預けていたお袋の遺品を引き取った」
そこまで言い、ビクトリーノは小さく息をついた。手元に置いた本と手紙に目をくれる。
マリアナには、その横顔が幼い子供のように見えた。悲しみ、途方に暮れた。
「片付けただけで、ずっと……見ることはなかったから、気づかなかった。親父が持っていたなんて」
「お父さま?」
思いがけない言葉に、マリアナは聞き返した。ビクトリーノは手紙に視線を落としたまま答えた。
「お袋が死んだあと、この本だけは親父がずっと航海に持っていってたんだ。お袋が一番好きだった物語。まさかラブレターが挟まってたとはな。存外、親父もロマンチストだったらしい」
ビクトリーノは笑ったが、どこか泣き出しそうでもあった。マリアナはビクトリーノの手を両手で包み、微笑みかけて言った。
「お二人の愛が、あなたなのね」
マリアナの手を握るビクトリーノの手に力がこもった。笑みを残そうとしているが、引き結んだ口元はわずかに震えていた。
顔をそむけたビクトリーノの手を、マリアナは柔らかく撫でた。
大きな勘違いから恥ずかしい思いをしたが、ビクトリーノの温かな愛情の源泉に触れられたことに、マリアナは深い喜びと嬉しさを覚えた。
―― ビト。あなたはいま、どこにいるのかしら?
私は毎日、あなたのことを想いながら過ごしています。
あなたの声、眼差し、温かさ、優しさを思い出しながら、あなたと会えない日々を耐えています。
あなたも……私のことを想ってくれているかしら?
私の手は、あなたを求めているの。
あなたの力強い手が、私の指に契約の指輪をつけて、愛を誓いあう日が待ち遠しくてたまらないわ。
だから、無事に帰ってきてね。私は港で、ずっとあなたを待っているから。
どうか、どうか……無事に。私の願いは、ただそれだけ。
お守りを同封しました。あなたが好きな蒼い石のついた耳飾り。
私の愛で、あなたが守られますように。
心から愛しているわ、ビト。
あなたのロサリオより ――
静かな廊下を二人は並んで歩いた。固く繋いだ手から、マリアナはビクトリーノの熱を感じていた。
客間につくと、いつものように。
「マリアニータ」
ビクトリーノは、マリアナの手を取り囁いた。マリアナは熱を込めてビクトリーノの深みのある茶色い瞳を見つめた。
視線が絡む。
ビクトリーノの瞳にも熱が宿り――一瞬、後ろめたそうに揺らいだ。
「今夜は、ありがとう」
ビクトリーノはマリアナの手を持ち上げ、指にキスした。そして、返した手のひらにも口づけた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
マリアナは微笑みを浮かべ答えた。
閉められた扉を見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。冷たい木の感触に手のひらから温もりが奪われていく。
もう不安はなかった。ただ、なにも告げてくれなかったことが少しだけ寂しかった。




