26.痛みを抱えて触れる夜
「ただいま、マリアナ」
ビクトリーノは満面の笑みを浮かべ、出迎えたマリアナの手を取った。
マリアナも、ふわりと微笑み答えた。
「おかえりなさい」
「今日は、なにをして過ごしてたんだ?」
「ゆっくりしていました」
ビクトリーノは片眉を上げて、柔らかく問うような眼差しを向けてきた。マリアナは、わざと誤魔化すように視線をはずす。小首を傾げて目を合わせてこられ、マリアナはくすぐったく笑った。
夕食の席で、マリアナは午後から女中たちにメイクを教えたと白状した。
「道理で。いつの間に使用人を入れ替えたのかと思った」
「そこまで言いますか? ドン」
給仕をしていた女中が不満げに言う。
「知らなかっただけで、実は器量よしを雇っていたんだな」
「あら、お口が達者なことで。そのお口で新しい料理もお楽しみください」
女中は笑って言うと、メインの皿を二人の前に並べた。白いソースの上に炒めた肉と野菜が盛られた料理。
湯気に乗って香辛料の複雑な香りが立ち昇り、ビクトリーノは物珍しそうに眺めた。それから肉にソースを絡めて口にすると、言葉もなく味わう。マリアナは、その様子をじっと見つめていた。
「料理長も変わったのか? このまま雇い続けたいと伝えてくれ」
二口目をすくいながらビクトリーノが冗談めかして言うと、女中は、にやりとマリアナに笑いかけた。
「だそうですよ、セニョレータ」
ビクトリーノは目を丸くして、マリアナに顔を向けた。
「夕食のリクエストを聞かれたので、食べたいものを作らせてもらったんです」
はにかんで言ったマリアナに、ビクトリーノは苦笑を浮かべた。
「本当にゆっくりしていたんだな。けど……君の作ったものが食べられて嬉しいよ」
甘い声音にマリアナは嬉しさを滲ませた視線を返した。そして、テーブルの下では両手を握り締めた。
食後は、いつものように談話室で話をした。ビクトリーノは女中たちのメイクを改めて褒め、マリアナにメイクの指導も事業として行うことを提案した。すでにマヌエラや彼女の友人たちから乞われて指導していたが、ビクトリーノが言うのは、女中や小間使いとして雇われる町娘相手にだった。
「雇われるとき、ある程度の技術を身につけていれば、いい職に就きやすい。君の指導を受けたとなれば信用にもなる」
マリアナは後宮の後輩たちのことを思いながら、うなずいた。マリアナも見習い期間を終えると、新しくハレムに入ってきた娘たちにいろいろと教えていた。同じ苦労をしないように、少しでも助けとなれるように。
けれど、それは半ば仕事でもあった。
ビクトリーノは、本当に街のことを大事にしている。力に見合った責任を果たす意思を持ち、考え、行動に移している。貴族でもないのに――。
マリアナはナロス領のことを思った。ずっと見ないように、考えないようにしてきた。
いい機会なのかもしれない。ビクトリーノから離れて……。
「マリアナ?」
顔を覗き込むようにして声をかけられた。マリアナは首を振って微笑む。
「どんな風に教えたらいいのかと思って。素敵な考えだと思います」
「先の計画として考えていこう」
ビクトリーノはマリアナの手を握り言った。マリアナも握り返すと、ふわりと笑んでうなずいた。
いつものように、ビクトリーノにエスコートされて客間まで戻った。
扉を開けて、中に入ったマリアナは振り返る。
いつもなら、ビクトリーノはそっと手を差し伸べ、くすぐるようにマリアナへ触れてきた。
今夜は真摯な面持ちでマリアナを見つめていた。マリアナは黙って見つめ返していたが……手紙の文言が脳裏をよぎり、それを見てしまった罪悪感が胸を締め付けた。目を合わせていられず、視線をそらしてしまう。
ビクトリーノは優しくマリアナの手を取ると、包み込むように握って聞いた。
「なにがあった? ずっとぼんやりしていたな」
マリアナはハッとしたが、表情には出さず、小さく息をついてビクトリーノを見上げた。
微笑みを作り、首を振る。
「ごめんなさい。ゆっくりし過ぎて、逆に疲れてしまったみたいです」
明るく言ったが、ビクトリーノは心配そうに眉根を寄せた。握られた手に少し力が込められた。
「マリアナ。マリアニータ、俺は……君を支えるために、ここにいる。どうか頼ってほしい」
優しく苦しげな声音にマリアナの胸は震えた。ビクトリーノの気持ちがつらかった。
――どうして……。どうして、そんなに優しくするの? あなたの声、眼差し、温かさ、優しさ……すべて私だけに向けられるものじゃない。
マリアナは歪みそうになる顔を隠すようにうつむいた。
「マリアナ……」
ビクトリーノは空いた手でマリアナの肩に触れて、乞うように呼んだ。
マリアナはビクトリーノの言葉を、行動を待った。それが、どんな言葉、どんな行動なのか自分でも分からず――ただ、確かなものがほしかった。
けれど、時が止まったように沈黙が降りた。
呼吸さえ憚るような静寂の中、ビクトリーノに握られた手の温もりだけを感じていた。
不意に強い思いが湧き上がってきた。
――離れたくない。
どんな立場になったとしても、彼の心の一部に置いてくれるのなら、それでいい。そばにいられるのなら、私は何者にもならなくていい。
この瞬間だけででも満たしてほしい……。
マリアナは握られた手を動かし、ビクトリーノと自分の指を絡めた。深く繋ぎ、手のひらまで合わせる。反対の手を伸ばし、ビクトリーノの胸に添えた。シャツ越しに固い胸板が上下するのを感じた。
「ビクトリーノ……。お願い」
マリアナは顔を上げ、震える声で言った。
視線が絡む。
深い茶色をした瞳には悲しみしか見えなかった。
「なにがあったんだ? 俺は、そんな顔をさせるために屋敷に呼んだわけじゃない。ここでは……俺の前では、なにも隠すことなく、すべてをさらけ出してほしい」
マリアナは強く抱き締められた。
「頼むから……。ひとりで苦しまないでくれ、マリアナ」
ビクトリーノの切実な言葉に堪えきれず、マリアナの喉から嗚咽が零れた。すがるようにビクトリーノの背中に腕を回し、しゃくり上げる声で言った。
「ごめ……ごめんなさい。私……読んでしまったの。あなたに……あなたの大切な人からの、手紙、を」
「大切な人からの手紙?」
ビクトリーノは戸惑ったように呟くとマリアナを離した。マリアナの瞳からあふれ出る涙を拭い、聞く。
「そんな手紙に心当たりはないが……。どこで見たんだ?」
困惑した瞳を見つめ返し、マリアナは小さくしゃくり上げた。




