25.恋を知る痛みの中で
マリアナは朝のメイクを迷うようになった。後宮で教育され、化粧をすることが日常になってから、ほとんど考えることなどなかったのに。どんな風にビクトリーノに見てほしいか意識すると、どれも間違いのような気がして手が動かなかった。
マヌエラやハレムの女性たちが、メイク一つに一喜一憂していた気持ちなど、なにも理解していなかったのだと気づく。
けれど、朝食の時間は迫る。結局、いつも軽くおしろいで整え、服に合わせた色を乗せる程度ですませてしまう。
もっと魅せたい。
見てほしい。
そんな思いを燻ぶらせながら食堂へと向かった。
食堂に入りかけたところで、席に座っていたビクトリーノの横顔にどきりとした。窓の外へ視線を向けてはいるが、どこを見ている様子でもない。険しさと鋭さ、それに迷いが綯い交ぜとなった複雑な面持ち。
海運商、ドン・ビクトリーノ・バルデムの顔。
自分が知るビクトリーノは、ほんの少しだけなのだと意識させられる。
マリアナは短く深呼吸をし、自分に言い聞かせた。
――顔を上げて、笑顔を絶やさず、ハキハキと。
微笑みを浮かべると、ビクトリーノに声をかけた。
「おはようございます」
振り返ったビクトリーノも、明るい笑顔を見せて答えた。
「おはよう、マリアナ」
朗らかな声音に心をほぐされ、マリアナの顔に自然な笑みが広がった。
朝食を終えると、マリアナはビクトリーノを玄関まで見送った。
「今日は休みだったな。ずっと屋敷にいるのか?」
「はい。特に用事もないので」
「なら、今日は休む訓練の日だな」
ビクトリーノのからかうような口調に、マリアナは顔を赤くして咎めるような視線を向ける。けれど、すぐに笑いがこぼれた。ビクトリーノの優しさがこそばゆかった。
「マリアニータ」
ビクトリーノが耳元に顔を寄せ、囁いた。ほとんど息のような呼びかけだった。
呼吸を止めたマリアナの両手を取り、軽く握る。そのまま持ち上げると、正面からマリアナの緑がかった金色の瞳を見つめ、指にかすかなキスをした。
「行ってくる」
「行って……らっしゃい」
不意打ちに恥ずかしさが全身を包み、かすれ、詰まった声しか出てこなかった。
ビクトリーノは、少しいたずらめいた笑みを残し出かけて行った。
マリアナは鼓動が生み出す熱に浸りながら、遠ざかる馬車の音を聞いていた。
ソニアに私用があるというので、今日はマリアナも休むことにしていた。
久々に、なにもすることのない日。
「……暇だわ」
マリアナは客間に戻るとソファーに腰かけ、瞬きを一つして呟いた。
朝食を取っている間にベッドは整えられ、部屋の掃除も終わっている。着替えはクローゼットに入れられ、整理されている。化粧道具を片付けようとドレッサーに座ったが、やはり掃除も整理もされていた。
使用人は十人ほどだが働き者ばかりで、主人が留守の間も怠けることなく屋敷を守っていた。
座っていると……ビクトリーノの囁きや唇の触れた指の感覚に気を取られ、それがまた気分を落ち着かなくさせる。しかし、なにをすればいいのか分からず、立ち上がって部屋の中を歩いてみてはソファーに座り、また立ち上がって歩いてはベッドに座り。そんなことを無意味に繰り返した。
手伝えることはないものかと、マリアナは客間を出ると使用人の姿を探した。
廊下で。
応接間で。
リネン室で。
中庭で。
食堂で。
台所で。
「なにかお手伝いできることはありませんか?」
そう尋ねた。
使用人たちは揃って答えた。
「ありがとうございます、セニョレータ。どうか、お気遣いなく」
仕方なしにマリアナは図書室で本を読むことにした。
並んでいるのは、ほとんどが航海や事業に関するもの。
目についた本を手に取り、少しずつ眺める。
航海術や気候の本では、屋敷で暮すようになった晩、ビクトリーノが語ってくれた船乗り時代の話が思い出された。海賊や海の伝説の本では、ビクトリーノが生きて、ここにいてくれることに安堵し、神に感謝した。
船乗りが歌う歌集の中に、ビクトリーノの歌ってくれた子守歌をみつけたときには、彼の柔らかな声が脳裏に響き、胸をうずかせた。
歌集を棚に戻し、すり切れた背表紙をそっと撫でる。
その近くに何冊か物語が収められていた。
内容の想像はつかないが、女性が主人公らしきタイトルが並ぶ。しっかりとした作りの他の本とは違い、少し粗雑で荒い作り。それだけにマリアナは意外な思いがして呟いた。
「こんな本も読むのかしら?」
一番読み込まれていそうな一冊を手に取り、ページを開く。自然と開いたそこには一通の封筒が挟まっていた。何気なく手に取り、表へ返す。
―― 愛するビトへ ――
宛名を見て、マリアナは手紙を取り落としそうになった。
ビト。ビクトリーノの愛称……。
彼を、そんな風に呼ぶ人をマリアナは知らなかった。そんな相手がいることも、知らなかった。
少し古びた封筒。色褪せてはいるが破れたところもなく、大切に扱われてきたのだと分かった。
マリアナは挟まっていたページに封筒を戻そうとした。
勝手に見るのは礼儀に反する。
けれど、染みのように広がっていく不安と恐れに突き動かされ、震える指で封筒を開いた。
―― ビト。あなたはいま、どこにいるのかしら?
私は毎日、あなたのことを想いながら過ごしています。
あなたの声、眼差し、温かさ、優しさを思い出しながら、あなたと会えない日々を耐えています。
あなたも……私のことを想ってくれているかしら?
私の手は、あなたを求めているの。
あなたの力強い手が、私の指に契約の指輪をつけて……――
マリアナは大きく息を吸い、手紙から顔を上げた。わななく唇を噛みしめ、涙が零れないように呼吸を繰り返す。
契約の指輪――結婚の。
ビクトリーノには大切な人がいた。身も心も捧げると約束した相手が。
それは……私ではない。
胸の痛みに、耐え難い苦しみにマリアナは初めて言葉にした。
――私はビクトリーノが好き。彼を愛してる。
涙が滲み、世界が見えなくなった。




