24.甘い日々の底で
翌朝、二人は一緒に朝食を取った。マリアナは贈られた街の服を着ていたが、ビクトリーノがそれに触れることはなかった。それでも表情や眼差しから喜んでいることが見て取れて、マリアナの気持ちも弾んだ。
仕事を進める手にも力が入る。
「体調は戻られたようですね」
薬種の瓶詰を行いながらソニアに言われ、マリアナは笑顔を返した。
「ええ、心配かけてごめんなさい。もうすっかりよくなったわ」
「ご無理はなさらないでください。私がドンに叱責されますので」
マリアナは驚いて手を止めた。
「叱られたの……?」
「はい。あんなに迫力のない叱られ方は初めてでした」
マリアナは聞き間違えたかと思った。
――迫力のない、叱られ方?
意味を掴み損ねていると、作業を続けるソニアの横顔に、ふっとおかしそうな微笑が浮かんだ。マリアナは、やっと理解して頬を染めた。
「ごめんなさい、私のせいで。これからは気をつけるわ」
マリアナは表情が緩みそうになるのを堪えながら言った。
仕事が終わって商館に戻ると、屋敷から迎えの馬車が来た。ビクトリーノが普段使っている漆黒の馬車ではなく、これまでと同じ、宿と商館の送迎をしてくれていたものだった。ビクトリーノの気づかいにマリアナは感謝しながら乗り込んだ。
夕食を一緒に取ったあとは図書室に案内され、他愛のない話をして過ごした。物語のこと、植物のこと、異国のこと。後宮で学んだ帝国語や異国の言葉も交えて話をした。
穏やかな時間だった。
客間までエスコートしてきたビクトリーノは、マリアナの瞳をとらえるように見つめた。空気の変化にマリアナは体を固くし、スカートを握り締めた。
ビクトリーノはゆっくりと腕を伸ばしてくると、マリアナの艶やかな髪を一房、そっと指に絡めた。かすかな感触にマリアナは息を呑む。
ビクトリーノは柔らかく目を細め、愛おしむように指を滑らせた。
「おやすみ、マリアニータ」
「おやすみ、なさい……」
マリアナは胸の高鳴りにため息を漏らし、ベッドに入った。目を閉じてもなかなか寝付けず、また寝不足になるのではないかと思った。
マヌエラの屋敷へ一緒に行ったり、必要な薬種や作り置く薬を選んだり、資金についての相談をしたり。これまでと変わらない開業の準備に明け暮れた。けれど、朝と夜は食事を共にし、眠る前は言葉を交わす。ビクトリーノの存在が、日常に溶け込んでいく日々でもあった。
十日が経った頃。夕食後に、そわそわした様子で談話室に誘われた。普段よりも大きな身振り手振りが、どこかはしゃぐ子犬のようにも見える。
どこか固い動きで、ビクトリーノが談話室の扉を開けると、中には重厚な木箱が置かれていた。赤いリボンがかけられ、表面には縫い針に掴まり逆さまになったコウモリの焼き印が押されていた。よく見ると、大きく翼を広げた胴体は指ぬきになっている。
「少し早いが……開業の祝いに」
マリアナは驚いてビクトリーノを見た。感謝の念と同時に、初めて目にする期待を滲ませた彼の表情に愛らしさを覚えた。
「ありがとうございます」
マリアナもはにかんで礼を言い、ゆっくりと箱に歩み寄った。ニスの塗られた滑らかな箱に、ゆっくりと指を滑らせ、薔薇の刺繍が入った赤いリボンの端をつまむ。少し力を込めて引くと、リボンはするりとほどけた。
幾重もの薄紙の奥から出てきたのは、漆黒のドレスだった。柔らかく艶のある生地に、マリアナの瞳と同じ緑がかった金色の糸で細かな刺繍が施されている。そして作りは帝国の、ゆったりと体に沿い、前開きで着られる形をベースにしているが、ポルタベルタらしい袖のふくらみや、首元まで覆う貞淑さも取り入られていた。
ふたつの国が融合したデザイン、そして――色。
格調高い黒は、双方の国で最上級の色として扱われている。すべての色の主であり、孤高の色彩。
マリアナはビクトリーノの気持ちに胸を詰まらせた。あふれ出しそうな涙をこらえて言った。
「とても、素晴らしい贈り物をありがとうございます。私は……まだ、なんのお礼も出来ていないのに」
「マリアナ」
ビクトリーノは首を振って遮った。
「それは、これから先の話だ。いまは受け取ってくれるだけでいい」
マリアナは零れ落ちた涙をぬぐい、精いっぱいの感謝を込めて微笑んだ。
夜も更けてくるとビクトリーノは、いつものようにマリアナを客間までエスコートした。
マリアナは大事に抱えてきた漆黒のドレスをそっとソファーに置くと、扉まで戻った。
「本当にありがとうございました。ドレスを着る日が待ち遠しいです」
「俺も、見られる日を楽しみにしている」
ビクトリーノは静かに言い、マリアナの手に軽く触れてきた。マリアナはぴくりと手が震えたが、見下ろしてくる柔らかな茶色い瞳を見つめ返した。
優しく、ゆっくりと手のひらを撫で、指先が絡んでくる。マリアナは視線を揺らし、そらしてしまう。熱を帯びた肌から鼓動の強さが伝わってしまうのではないかと思ったが、触れ合った指を離すことはしなかった。
「おやすみ、マリアニータ。また明日」
ビクトリーノは囁くように言い、軽く額にキスをした。
「おやすみなさい、ビクトリーノ……」
扉が閉められると、マリアナは触れ合っていた指先の感触を閉じ込めるように胸元で握った。そのまま、心臓が落ち着くのを待つ。
乱れていた鼓動が静まると、寝支度を始めた。
この先に待つことをマリアナも理解していた。ハレムで教育されてきたこと、そのもの。けれど、自分の身に起きることはないと思い、考えることもなく忘れていた。
ビクトリーノが毎夜、少しずつ触れる箇所を変え、眼差しを変え、声色を変え……ようやくマリアナも気づいた。女性として求められていることに。
動揺よりは腑に落ちた感覚の方が強かった。気づかなかった自分が愚かにも思えた。
そして、迷った。このまま屋敷で世話になっていいのか。自分が、どうしたいのか。
寝支度をすませると、マリアナは漆黒のドレスを抱えて窓際に腰かけた。少しだけ窓を開き、夜風を浴びる。耳をすませると遠くから波音が聞こえた。
ビクトリーノの子守歌を思わせる、低い響き。
しばらくすると馬車の音が、そこに加わった。門をくぐり敷地に入ってきた馬車は、すぐに出て行った。
ここ数日、ビクトリーノは夜中に出かけ、朝方に戻るようになっていた。仕事だろう、と思う。ビクトリーノは仕事については、ほとんど語らない。マリアナも自分が聞くことではないと思い、尋ねることはなかった。
けれど、じわりと胸の奥底から不安も湧き起こっていた。
――本当に仕事で出ているの?
いつからか鏡の中の自分に、ハレムの面影を見るようになっていた。
皇帝を待ちわびる愛妾たちと同じ――切なさと苦さの混じった表情。




