23.揺れた心を抱く夜
マリアナはビクトリーノの屋敷に移るため、女中を伴って宿へと戻った。それが昼前のこと。それから再び屋敷へ来たときときには、日がずいぶんと傾いていた。
「セニョレータのお着替えに時間がかかりまして」
手伝いをしていた女中の言葉にマリアナは慌てた。止めようとしたが、女中はにこりと笑んで一礼すると、マリアナの荷物を運ぶ御者の元へと向かった。
残されたマリアナは、迎えに出てきたビクトリーノの視線から逃れるようにうつむいた。
「あの、ご、ごめんなさい。せっかく用意していただいた服だったのに……」
落ち着かず、胸元を飾る蒼石のペンダントをいじる。
「お、お招きいただくのだから、着替えた方がいいかと思って……」
最後の方は消え入りそうになっていた。
女中の言葉通り、荷物をまとめるのは、さほど時間はかからなかった。けれど、ドレスを目にした女中から、着替えていくことを勧められた。ビクトリーノが用意してくれた服は、着心地は楽だが……質素で、良くも悪くも飾り気がなかった。
ビクトリーノの屋敷へ正式に招かれる最初の日。マリアナも正装で赴きたいと着替えを決めた。
しかし、そこからが長かった。何度も着替えては違うと思い、メイクをしては失敗したとやり直し。誰かに見てもらいたいと思いながら、衣装を選んだのは初めてのことだった。
けれど、やっぱりビクトリーノが用意してくれた服のままの方が、よかっただろうか。
マリアナは後悔を覚えながら、黙ったままのビクトリーノを上目に見た。茶色い瞳に宿る恍惚とした光に、マリアナは肌を熱くした。
ビクトリーノは距離を詰めると顔を寄せて、小さな蒼石の飾りをつけたマリアナの耳元で低く囁いた。
「すごく綺麗だ。よく似合ってる」
マリアナは恥ずかしさに顔を覆ってしまいたくなるのを必死に我慢した。
ビクトリーノは体を起こすと、朗らかに言った。
「服のことは気にするな。あれは替えで用意させたものだから、好きなときに着ればいい。せっかくだから食べに行くか」
思いがけない言葉に驚いたマリアナに、着替えてくるから中で待ってるよう言い残し、ビクトリーノは奥へと消えた。
マリアナは玄関ホールに置かれたソファーに腰かけ、ビクトリーノが戻るのを待った。そわそわとドレスの裾を直したり、胸元を整えたりする。
緑がかった青色のドレス。施された刺繍の糸も同系色だが、わずかに緑が強く、光の当たり方が変わると生地から浮き上がって見える。幅広のベルトには金の細い鎖に連なる蒼石の飾り。髪は両サイドをおろし、後ろは女中に手伝ってもらい深紅のつけ毛と一緒に編み込んだ。
目元は暗くなり過ぎないよう金粉を混ぜた青を薄く塗り、口紅にも朱の中に少しだけ青を足して馴染ませた。
派手になりすぎないよう。けれど、美しくなるよう苦心した。
――すごく綺麗だ。よく似合ってる。
ビクトリーノの声が何度も頭の中で響いては消えた。
ほどなく戻ってきたビクトリーノに、落ち着いていたマリアナの心臓は、また強く脈打ち始めた。
夜空をまとったような濃紺の上着。いつものように大振りな蒼石の耳飾りと、印章指輪をつけている。ただ、上着とベストをしっかり着込み、蒼石のブローチをつけたフリルタイの装い。ラフさを残しながら整えた髪型が新鮮に見えた。
「お待たせ。行こうか」
ビクトリーノは言うと、肘を曲げてマリアナの方へと差し出した。
見上げると深みのある茶色い瞳が微笑みかけてきた。
出会ったあの日と同じように。けれど、ずっと優しく、慈しみを感じる微笑み。
マリアナは、そっとビクトリーノの腕に自分の手を絡めた。あの日よりも、少しだけ強くビクトリーノの腕を握り、歩き出した。
ワインは三杯しか飲まなかったのに、マリアナは雲でも踏んでるように足元がふわふわしているように感じた。静まり返った廊下に二人の足音が響く。
「本当に手伝いは呼ばなくてよかったのか?」
客間の前につくとビクトリーノは尋ねた。
「ええ、もう遅いですから。ひとりで大丈夫です」
マリアナは答え、名残惜しさを感じながらビクトリーノの腕から手を離した。
ビクトリーノはうなずくと客間の扉を開けた。暖炉で暖められた空気が漂い出てくる。
「部屋は好きに使うといい。必要なものがあれば揃えるから、遠慮なく言ってほしい」
「ありがとうございます。ご厚意に甘えるばかりで……」
「マリアニータ」
優しく遮られる。マリアナはどきりと身をすくめ、ビクトリーノを見上げた。
「俺がしたくてしていることだ。喜んでくれたら、それだけでいい」
甘い眼差しと言葉に、マリアナはくすぐったさを覚えた。
「お食事、とても楽しかったです。お連れくださり、ありがとうございました」
「俺も楽しかった。また行こう」
ビクトリーノは柔らかく笑んで言うと、中へ入るよう促した。マリアナはゆっくりと客間に入る。振り返るとビクトリーノが、ふっと表情を変えた。
「おやすみ、お嬢ちゃん」
明るく気取った調子でウインク。そして自分の指先を唇に軽く当てると、マリアナに手を向けて短く息を吹いた。
マリアナが目を丸くしている間に、ビクトリーノは手を振り扉を閉めた。
「あ、おやすみなさい……」
マリアナは呟き、しばらく閉まった扉を見つめていたが、急におかしさがこみ上げてきて笑った。
そのまま軽やかな足取りでドレッサーに向かい着替えをする。一つはずし、一枚脱ぐ度、マリアナは今夜の出来事を反芻するように思い返した。
ビクトリーノが選んだのは港が見えるレストランだった。二階に設けられた席の一部はバルコニーにあり、潮風に吹かれながら料理を食べた。港町らしい新鮮な海鮮。異国の食材。豊富な香辛料。
帝国を出てから久しぶりに口にした味もあった。半年しか経っていないのに遠い昔のような気がした。
ビクトリーノは船に乗っていた頃のことを語った。船上の生活。異郷の港。嵐や海賊との遭遇。不可思議な出来事。心から楽しそうに、懐かしそうに……時おり遠くを見つめて。
そして、ふと口をつぐむとグラスを軽く回した。ポルタベルタ特産のバラ色をしたワインはグラスの中で揺れ動き、細かな泡を立ち昇らせてはパチパチと弾け消えた。
ビクトリーノはワインを一気に飲み干して言った。
「オラ・レガーダに帰ってきたとき、人生が止まったような気がした」
口元に笑みを残しながらも、どこか物寂しげな面持ちに、マリアナは自分がオラ・レガーダに来たときのことを思い出しながらうなずいた。
ビクトリーノは、すぐにおどけた笑顔に切り替えて続けた。
「マヌエラに引っ叩かれて、すぐ動き出したけどな」
マリアナは比喩かと思ったが、実際に叩かれたと知ってびっくりした。
それから話はマヌエラのことに及び、ビクトリーノはレストランに来ていた彼女の知人夫妻に引き合わせた。それをきっかけにビクトリーノに声をかけてくる人が増え、マリアナも彼らに紹介された。これから新しい薬種店を開く、と。
女性だけにではなく、男性にも。
マリアナが探しているガラス瓶や木工職人について触れたり、王都の貴族たちは帝国の薬剤をこぞって求めていると話題にした。始めは儀礼的に聞いていた男性たちも、その言葉で目の色を変えてマリアナに質問してきた。
マリアナは、ビクトリーノの気遣いに思い至り、胸が温かくなった。
化粧を落として着替えをすませると、マリアナは荷物の中からリーズの手袋をしまった小箱を取り出した。
リーズと話がしたい。彼女にビクトリーノのことを話したら、なんと言うだろう。
きっと話が尽きることなく夜通し語り合う。
マリアナは小箱を胸に抱え、ベッドに入った。滑らかな小箱の表面に指を這わせると、そのままビクトリーノの優しさに触れているようで胸が震えた。
昨夜の彼の手の温もりが蘇る。
体に残る熱はワインのせいなのか、ビクトリーノのせいなのか分からなかった。




