22.ほどけた心に触れる朝
朝、マリアナが目覚めると、お仕着せを着た女中二人が朝食の支度を整えていた。
ベッドのかたわらにソファーは置かれていたが、ビクトリーノの姿はない。少しがっかりした気分でマリアナは起き出した。
「おはようございます……」
着たままだったガウンの前を合わせながら女中たちに声をかける。
てきぱきと働いていた二人は揃って手を止めると、マリアナに向かって礼をした。
「おはようございます。ドニャ・マリアナ」
マリアナは、どきりとして慌てて首を振った。
「私は……令嬢ではないわ」
「あら、そんな」
二人は顔を見合わせておかしそうに笑うと、マリアナの後ろを見やった。それにつられて振り返ると、いままで眠っていたベッドがあった。彼女たちが言いたいことに思い至り、マリアナは耳を染めて大きく首を振った。
「ビっ、ビクトリーノは介抱してくださっただけよ。目が覚めてから、お話をして……私が休んだら、すぐに退室されたもの」
――多分……。
マリアナはビクトリーノが、いつ部屋を出たのか知らなかった。
二人は、落ち着かなく手を握るマリアナを観察するように見つめていたが、視線を交わすと隠しきれない笑みを浮かべた。マリアナが後宮で幾度も見てきた、好奇心があふれ出した表情だった。
マリアナは自分の答えがどう受け取られたのか、よく分からなかった。
「そうでしたか」
「それは失礼いたしました、セニョレータ」
マリアナを促すと、二人は衝立を用意して身支度をさせた。顔を洗い、髪を整え、服を着替える。その間、ビクトリーノと、どんな風に知り合ったのか、どんな交流をしてきたのか世間話を装って尋ねられた。
マリアナは正直に答えた。
「ビクトリーノは、仕事の関係で手を貸してくださっているだけです」
自分で言いながら、なぜか物足りなさを感じた。それでいて女中たちが、マリアナの話は以前からドンに聞かされていた、と口にすると、胸がうずくような感覚を覚えた。
女中に着せられたのはマリアナの灰色のドレスではなく、街の女性たちが着ている服だった。編み上げのベストで軽くウエストを絞り、首元はすっきりと開いている。
「これは……?」
「ドンから街の仕立て屋で買ってくるよう申し付かったものです。朝一番で」
その口調から、非難ではなく面白がっているのは感じたが、好奇の対象になっていることにマリアナは気恥ずかしくなった。
「ごめんなさい。ありがとう」
早口で言いながら、熱を帯びた胸元をさする。
「あの、私のドレスは?」
「昨夜、着替えさせていただいたときにお預かりしました。お戻りになるとき、お渡しするようドンから言いつかっています」
「手袋は? 手袋も一緒?」
マリアナはリーズの手袋が心配になって聞いた。答えたのは先にテーブルへ戻り、コーヒーを淹れていた女中だった。
「それはこちらに」
マリアナは小走りにテーブルへ向かった。
置かれていたのは象嵌の施された平たい木箱だった。手に取って蓋を開くと、中は革張りでリーズの手袋が収められていた。
「そちらは大切なものだろうから、とドンが」
マリアナは礼を言い、木箱を撫でた。
リーズからもらった手袋だと、ビクトリーノには話していなかった。それなのになぜ大切なものだと分かったのか、マリアナは不思議に思った。
朝食を終えると、ビクトリーノの執務室へと案内された。
廊下にさりげなく置かれている植物は、東方や南洋の国々が産地のもの。飾られている美術品も帝都で取引されていて、おかしくないようなものばかりだった。ドン・ビクトリーノの屋敷に相応しい……自分がいるべきではないような場所に感じられた。
女中が扉をノックし、声をかける。返事と同時に扉が開き、ビクトリーノが笑顔で出てきた。
「マリアナ。おはよう」
昨夜のことが一気に脳裏を走り、鼓動が早まる。深みのある茶色い瞳を見返すことが出来ず、視線を泳がせてマリアナは返した。
「お、おはようございます……」
ビクトリーノは女中にコーヒーを運ぶよう言うと、マリアナを中に招いた。
大量の本と書類が本棚に溢れた部屋だった。飾りは額に入れられた大きな地図と船の模型ぐらいしかない。実務的な内装にビクトリーノの本質を感じた。
「昨夜は、ありがとうございました。着替えと、手袋の小箱まで用意していただいて」
促されたソファーに腰かけると、マリアナは言った。
しかし、自分のかすれた声に狼狽える。
――顔を上げて! 笑顔を絶やさず、ハキハキと言うのよ。
心の中で自分を叱ると、膝の上で両手を結び顔を上げた。
ビクトリーノと視線が絡む。暖炉の光に照らされた顔と重なって見えた。撫でられた頬、唇の触れた額に感触が蘇り、そこから全身に熱が広がっていく。我慢して顔は上げ続けたが、笑顔を作るだけの余裕は持てなかった。
「体調は、どうだ? 朝食は取れたか?」
マリアナは震える声で答えた。
「美味しくいただきました」
「よかった。服もよく似合ってる」
ビクトリーノの優しい眼差しと声音に、マリアナはくらりと眩暈を覚えた。
まだ体調は戻っていないのかもしれない。今日は宿で一日、休ませてもらおうと思った。
それで、ふと思い出された。
「あ、ごめんなさい。総会の報告をしなくてはならなかったのに」
マリアナは姿勢を正し、意識を切り替えて薬種商組合の加入が認められたこと、女性たちと親睦を深めたことを話した。ビクトリーノは黙って聞いていたが、塗り薬のレシピをトルドラに渡した話では商人の顔をしてにやりと笑った。
「よく頑張ったな。加入おめでとう」
ビクトリーノに言われ、マリアナははにかんだ。
グレミオに加入できたことよりも、薬種商や女性たちと打ち解けたことよりも。ビクトリーノに認めてもらえたことが、なにより心を浮き立たせた。
ビクトリーノは少し冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、つと視線を動かした。どこか、ためらいや迷いを感じさせるような動きに見えた。マリアナは少しの不安を覚えた。なにか悪いことでもあったのだろうか。
だが、意を決したように戻ってきた眼差しに身を固くした。鼓動が早まる。茶色い瞳の奥から放たれる熱に、魂ごとからめ取られるような感覚に陥った。
「マリアナ。このまま宿に住み続けるつもりか?」
ビクトリーノは、総会の話を切り出したときのような事務的な口調で聞いてきた。
マリアナは意図が分からないまま首を振った。
「まだ、そこまでは考えが至っていませんでした」
「宿は……今日までにして、ここに移るといい」
マリアナは心臓が大きく膨らんで破裂したかと思った。また倒れそうになるぐらい動悸がして、いろんな言葉が頭の中を巡る。言わなければならないことはたくさんあったのに、出てきた言葉はシンプルだった。
「そっ、そんなこと……無理です!」
「いつまでも宿に居続けるのは金の無駄だろう」
ビクトリーノは、あくまで淡々と言う。けれど、仕事のときとは、どこか違う感情も滲み出ていた。それがマリアナの動揺を強くした。胸元に手を当て自分で自分をなだめ、言葉を絞り出す。
「で、でしたら店舗に移ります。もう掃除はすんでいますから、家具を入れれば……」
「宿に暮らしていてさえ自己管理できないのに、開店を控えてひとり暮らしなんて、また倒れるつもりか?」
「使用人も雇います」
「開店と引っ越しの準備、使用人の採用までするのか?」
そう言ったあと、ビクトリーノは押し黙った。一瞬、動きかけた手は固く握り直され、表情にわずかな苦みが現れる。そして、懇願するように言った。
「マリアニータ。もう心配はかけないと言っただろう?」
全身を撫でさするような声に、マリアナは耐えられず顔を伏せた。
このタイミングで、そんな呼び方をするのはずるい、と思った。
返すべき言葉も意味も見失い、マリアナは浅く息を吐き出した。ためらいがちに顔を上げ、小さくうなずく。ビクトリーノは安堵したように表情を崩した。
マリアナは、この人は根っからの商人なのだ、と思った。どんな場面でも自分の要求を上手く認めさせる方法を熟知している。
――うますぎる話には注意なさい。狼は羊の顔をして近づいてくるのよ。
ダシャの言葉が、いまになって身に染みた。
けれど、同時に――食べられてしまいたい。そんな気持ちも、かすかに湧いていた。




