21.ほどけていく夜の中で
薪の爆ぜる音がしていた。
マリアナは滑らかな上掛けの中で寝返りを打ち、厚みのある柔らかな枕に顔を埋めた。
深く息を吐き出し、ゆっくりと瞼を開ける。
オレンジ色の光に浮かび上がる見覚えのないカーテンが目に入った。唐草模様が織り込まれ、裾はレースで飾られている。視線を上げると天蓋から吊り下げられていた。
マリアナは瞬きをし、夢心地のまま視線を動かした。
暖炉の前に誰かの足が見えた。足を組んでソファーに座り、膝に乗せた本を読んでいる。
ページをめくる音。
マリアナは跳ね起きながら叫んだ。
「お父さま!」
床へ降りようとベッドへ突いた手が沈み込み、そのまま端から滑り落ちる。マリアナは絨毯を敷き詰めた床に投げ出された。
「マリアナ!」
駆け寄ってきた男性から力強い腕で抱き起こされる。マリアナが乱れた黒髪の間から目にしたのは、不安と心配を溢れさせたビクトリーノの顔だった。
「大丈夫か? どこか打たなかったか?」
マリアナの顔にかかった髪を優しく指先で払いながら聞く。薄い布越しに感じる腕の逞しさと、状況の分からなさに混乱を覚えながら首を振った。
「大丈夫、です。私、どうして……」
「倒れたんだ。覚えていないか?」
その言葉にマリアナは総会のこと、ビクトリーノを待っていたこと、すべてが消えた瞬間のことを思い出した。
いまビクトリーノは上着を脱いでいるが、ベストは身につけたまま。正装からして公的な用事だったのだろう。そして遠方で夜遅くまでかかる大変な仕事を終えて帰宅したところだった。なのに着替えもせず、ずっと付き添ってくれていた。
マリアナは申し訳なさにうなだれて言った。
「ごめんなさい……。疲れてお戻りになったのに、ご迷惑を」
体を支えるビクトリーノの手に力が込められ、マリアナはびくりと震えた。
「そう思うのなら、もっと自分の体調にも気を配れ」
厳しい言葉とは裏腹な、苦しげな声音。
マリアナが顔を上げると、ビクトリーノの表情を目にする前に抱き締められた。
「無事で、よかった」
耳元で聞こえた声は、かすかに震えを帯びていた。全身を包むビクトリーノの温もりに、強張っていた体の芯までほどけていく。マリアナはビクトリーノの広い肩に頭をもたれかけて言った。
「心配させて、ごめんなさい。これからは気を付けます」
心臓の鼓動が心地よく響いて聞こえた。
ビクトリーノに手を引かれて立ち上がると、マリアナは室内を見渡した。落ち着いた内装。簡素だが一つ一つの調度品は手の込んだ造りなのが見て取れた。商会の中とも思えず、不思議に思い尋ねた。
「あの、ここは?」
「俺の屋敷だ」
マリアナは驚いて顔を上げた。
マリアナを見下ろすビクトリーノの瞳が一瞬、気まずそうに揺らぐ。ビクトリーノはすぐに顔をそらすと、天蓋の柱に手を伸ばした。フックに吊るされていたガウンが肩にかけられ、マリアナは自分がシュミーズ一枚でいることに気が付いた。
礼を言って、慌てて袖を通す。
「着替えは女中にさせたから」
ビクトリーノは大股で暖炉へ向かいながら言った。
「腹が減っただろう。すぐに温める」
マリアナは暖炉前に置かれたソファーに座って、ビクトリーノの手元を見つめた。
慣れた手つきで暖炉に小鍋をかけ、焦げ付かないようゆっくりとかき混ぜる。湯気が立ち始めると、甘さと香ばしさの混ざった香りが漂ってきた。十分に温まると火から外して、器によそった。
「熱いから気をつけて食べろよ」
「ありがとうございます」
マリアナはスプーンを手に取り、円を描くようにミルク粥を混ぜた。シナモンの深い芳香の中に爽やかなレモンの気配が、わずかに混ざる。一匙すくい、息を吹きかけて冷ますと口に含んだ。
ハチミツと米の甘さがトロリと舌の上に広がった。
懐かしい味。
最後に食べたのは――流行り病で床に臥せっていたときだった。
――作ってくれたのは、お母さまと……。
不意にマリアナの瞳に涙が浮かび、零れ落ちた。息が詰まり、しゃくり上げる。抑えなければ、と口を引き結び堪えるが、涙も感情も止めどなく湧き上がってきた。
ビクトリーノが隣に座りミルク粥を取り上げると、マリアナを抱き寄せた。背中をさすりながら、静かに、深く言う。
「そこに留めておく意味はあるのか? 全部吐き出せ」
それが、どんな感情なのか自分でも分からないまま、マリアナは泣いた。
ひとしきり泣いて気持ちが落ち着いてくると、マリアナはぽつりぽつりと語った。
「十二のとき、両親が流行り病で亡くなりました……」
後見人になった叔父夫妻から十四で帝国の後宮に売られたこと。八年を過ごしたハレムでの生活のこと。リーズやダシャのこと。薬種屋を勧められたこと。
口にすることで、無自覚だった胸の中のわだかまりがほぐれていくような気がした。痛みも苦みも残ってはいるが、自分の人生とようやく向き合える気がした。
ビクトリーノは短く相槌を打ちながら聞いていたが、ダシャの指導で資産を増やしていった話だけ感心したように笑った。
「いい人に出会えてよかったな」
ビクトリーノの言葉に、マリアナは小さくうなずいた。そしてビクトリーノの胸から体を起こすと向かい合って言った。
「あなたに出会えたことも感謝しています。ビクトリーノ」
暖炉の光に照らされ陰影の深くなった面立ちに見つめ返される。
炎の映り込んだ瞳が熱を帯びたように見えるのは気のせいだろうか。ゆっくりと視線が下り、また戻ってマリアナの瞳と絡み合う。
「マリアナ……」
ビクトリーノが甘く囁き、マリアナの頬に手を添えた。優しく肌を撫でながら顎へと動き、軽く持ち上げる。
近づいてくるビクトリーノに、マリアナは――頭を真っ白にし、目を大きく見開いて硬直した。
ビクトリーノは動きを止めて、マリアナの顔をまじまじと見つめた。
茶色い瞳に浮かんだ困惑に、マリアナも動揺を強めた。心臓が破裂しそうなほど脈打ち、また泣き出したくなった。
短く息をついたビクトリーノは苦笑いを浮かべ、マリアナの額に軽くキスをして立ち上がった。
「すっかり冷めたな。温め直そう」
器のミルク粥を鍋に入れると、もう一度、火にかける。
マリアナは温まったミルク粥を落ち着かない気分のまま食べた。食後に出されたハーブティーも、唇の触れた額がうずくのを静めてはくれない。ビクトリーノの瞳の中に自分がいることが恥ずかしく、隠れてしまいたかった。
それなのに。
「そろそろお休み」
そう言ってビクトリーノが退室しようとしたのを、マリアナは思わず腕を掴んで引き留めた。すぐに手を離して謝ったが、火が出そうなほど顔が熱くなった。
「しょうのない子だな」
ビクトリーノは軽い調子で言うと、マリアナを抱き上げた。予想もしていなかった行為に、マリアナは小さく悲鳴を上げた。混乱するマリアナを抱えたままビクトリーノはベッドに運び、半ば放るように下ろした。
そのまま暖炉の前に戻ると、一人掛けのソファーを運んでベッド脇に置いた。
「眠るまで側にいるから、おやすみ。マリアニータ」
「……子供じゃないわ」
マリアナは口先で不満げに言いながらベッドに潜り込んだ。
「子守歌でも歌うか?」
「歌えるの?」
ソファーに腰かけたビクトリーノは、上掛けから出たマリアナの手をそっと握り、歌い出した。
祭りのときの張りのある力強い歌声とは違う、柔らかく低い、さざ波のような声。握られた手から伝わる体温と耳を撫でる響きに包まれて、マリアナは溶けるように眠りへ落ちていった。




