20.そして沈む夜
上座に近い席を勧められたが、マリアナは固辞して末席へと着いた。並んで座るのは組合の中でも小さな店を構えたり、大店で見習いとして働く者たち。挨拶を終えると彼らから話しかけてくるようなことはなかった。チラチラと視線を向けてくるだけで、マリアナが声をかけても愛想笑いで終わる。
マリアナは、しばらく彼らの様子を観察すると一番年若い、十五、六の娘へと親しげに声をかけた。
「お嬢さん、素敵なブローチね。髪飾りとお揃いになっていて、とても映えているわ」
娘は顔を染めて、胸元につけたブローチに触れた。鮮やかな黄色い刺繍糸を編んで、立体的に作られたジネスタの花。ふっくらとした花びらが、大きな尾羽を立てて飛ぶ、鳥のような形をしている。髪にも少し大きく編んだ三輪が、可愛らしい小さな葉と一緒につけられていた。
「ありがとうございます。でも、安物だわ」
娘はマリアナのショールを留める金細工の鳥を見ながら言った。
「魅力を損なう高価なものを身につけるより、自分を輝かせてくれる安いものを選ぶ方が賢いわ。あなたは自分の魅力を分かっているみたい」
娘ははにかむと、隣に座る母親に目を向けた。母親は優しい笑みを娘に返して、小さくうなずきかけた。マリアナは彼女の両親へ、ふわりとした笑みで言った。
「素晴らしいセニョレータにお育ちですね」
両親は誇らしげにマリアナへ礼を言った。
そこから、少しずつ周囲と話が弾むようになった。特に娘や妻たちは服装やメイクについて聞きたがった。マリアナがマヌエラの元へ通い、アドバイスしていることは風の噂で広がっており、興味を持っていたようだった。
食事の合間、マリアナは彼らにも塗り薬とレシピを渡した。トルドラ夫妻に渡したのとは別の調合。入手しやすい素材で作れるものだった。
「アレンジの方法も記してありますので、奥様のお好みに合わせてお作りください」
食事を終えて席を立つ頃には、マリアナの周りには娘や若い妻たちが集まるようになっていた。遠巻きに青年たちも近づきたそうにしていたが、父親と手厳しい母親がそれを止めた。
マリアナは、そのことに気づかないまま、多くの女性と気安く話す時間を楽しんだ。マヌエラや、その友人たちとの話も楽しくはあったが、彼女たちは顧客でもあり気遣いと礼節を欠かせなかった。
リーズや、他の年の近い娘たちと一緒に過ごした日々を思い起こさせたのは、奥方たちではなく娘たちだった。
マリアナは話をする間、幾度もリーズの存在を感じるように手袋へ触れていた。
トルドラの合図で場がお開きとなる。早い者から会館を後にするが、マリアナは引き止められるまま話を続けた。玄関で最後の一組を見送ると、浅く息をついて会館の使用人に声をかけた。
「ごめんなさい、遅くまで残ってしまって」
使用人の男性は目を丸くして、首を振った。
「いえ、そんな。お構いなくセニョレータ」
「これを」
ソニアからバスケットを受け取り、使用人へと渡す。
「みなさんで分けてください。傷薬です。これから、あかぎれやしもやけも出来やすくなるでしょう? 少しでも傷が和らぎますように」
「セニョレータ、そのようなお心遣い……ありがとうございます」
使用人は息を詰まらせ言った。
乗り込んだ馬車が走り出すと、マリアナは小さく長く息を吐き出した。
「お疲れさまでした、セニョレータ・スリナーチ。上手にこなしましたね」
タデオは満足そうな笑顔を浮かべて言った。
マリアナがタデオの笑顔を目にしたのは、初めてのことだった。
「ドンもお喜びになりますよ」
「こちらこそ、ありがとうございました。おかげさまで無事、グレミオの一員となることが出来ました」
マリアナは静かに微笑んだ。
「しかし、レシピまで渡して、本当によかったんですか? 明日には、どの店でも新商品として並びますよ」
「あれは基本のレシピにすぎませんから……。様々な品があれば、お客も選ぶ楽しみが増えて嬉しいのではないでしょうか」
マリアナの答えに、タデオは意外そうな面持ちで眉を上げた。
「けど、使用人にまで渡す必要はなかったんじゃないですか」
隣に座るソニアが厳しく言った。
「贈ったところで、彼らが売るわけでも、顧客になるわけでもなし」
「彼らの準備があって、総会も親睦会も滞りなく行われたのよ」
マリアナは言いながらソニアの手を握った。
「あなたにも感謝しているわ、ソニア。薬作りは不慣れなのに、毎日、遅くまで手伝ってくれて、今日も私を支えてくれた。本当にありがとう」
ソニアは渋い顔のままマリアナから自分の手を引いた。けれど、そっぽを向いた横顔には隠しきれない照れが滲んでいた。
マリアナも窓の外へと視線を移した。
建物が次々と流れていく。強い日差しを反射する白壁。豊かな街らしくガラスが多く使われ、建物を着飾った婦人のようなたたずまいに見せている。帝国とは違うが、帝国と変わらない人間の形がそこにはあった。
マリアナは浅く息を吸い、短く吐き出した。
開業へ向けた大きな山は越えた。その嬉しさと手応えは、確かにマリアナの胸にあった。
けれど、どこか空虚さも覚えていた。店を開くだけでは埋まらない穴が心の中に開いていた。
バルデム商会に戻り着くが、ビクトリーノの姿はなかった。いつ戻るのか事務員に尋ねると、遠出しており今日中に戻れるかも分からない、と答えた。
マリアナは迷った。報告だけならタデオに頼んでも、事務員に言伝してもいい。ソニアからは早く帰って休むように言われた。
けれど、顔を合わせて自分で報告したい……と思った。ビクトリーノの言葉がほしかった。
マリアナは前庭に面した部屋で待たせてもらうことにした。
窓辺に座り、じっと外を眺めた。
日がゆっくりと傾き、建物の落とす影が長く伸びていく。事務員たちが帰り始め、商会の中には静けさが広がり始めた。代わりに街からは陽気な歌声が響いてくる。テーブルに置かれたコーヒーは、一口も口にすることなく冷めていた。
日が暮れて夜も更けた頃、三度目の帰宅を勧められた。その勧めを断ってほどなく、ランプを灯した馬車が近づいてくるのが見えた。マリアナは窓に顔を寄せて馬車の動きを追った。
漆黒の馬車が月光に浮かぶ鍛鉄の門をくぐり、商館へと入ってくる。
マリアナは顔をほころばせて立ち上がった。
勢いよく立ち上がったためか、一瞬めまいを覚えて窓に手をついた。しかし、気に留めず身を翻して部屋から出た。小走りに廊下を移動し、階段を下りる。
最後の段に着いたところで、ちょうど玄関からビクトリーノが入ってきた。
「マリアナ」
大きな笑顔を向けられて、マリアナの足は止まった。
金の刺繍がふんだんに施された漆黒の上着。今日はしっかりベストまで着込んで、髪も整えられている。柔らかなフリルタイにつけられた碧石のブローチ以外に装飾はなく、右手の印章指輪だけが、いつもの彼だった。
普段の野性味は影を潜め、どこか貴公子のような雰囲気さえ漂う。
マリアナは高鳴る心臓を静めようと、息を吸った。けれど、胸の奥まで空気が入らない。
「総会は、どうだった?」
歩み寄ってきたビクトリーノが尋ねた。
手すりに置いたマリアナの手に、大きく温かな手が重なる。深みのある茶色い瞳に見つめられ、鼓動はますます早まった。
浅い呼吸を繰り返し、マリアナは息苦しさを覚えた。
視界が白くかすみ、星が瞬く。
「マリアナ……?」
ビクトリーノの声に答えようと唇を開いたが、言葉が出てくることはなかった。
全身から力が抜け、マリアナは闇の中へ落ちていった。ビクトリーノの声が遠く、何度もマリアナを呼んでいた。




