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3.八年ぶりの空の下で

 マリアナが潮風に吹かれるのは八年ぶりのことだった。

 真っ青な空。太陽の日差しにキラキラと輝く海。幼い頃に目にしたのと同じ景色があった。けれど行くときには理解出来なかった異国の言葉が、いまは意味を持って耳に届く。

 マリアナは指につけた真新しく少し大きな指輪を、無意識にクルクルと回しながら、これから先のことを考えた。


 皇帝の死去に伴う後宮ハレムの人員整理。新しい皇帝は、まだ十代だったため、母后の采配で、先代から一度もお手付きがないまま二十を超えていたものは一律で退職させられた。

 二十二になっていたマリアナも、わずかな持ち物と退職金を手にしただけでハレムを後にした。


 といっても、行く当てもなく。

 途方に暮れたマリアナは、ハレムで仲良くしていた同い年のリーズに誘われるがまま先輩を頼った。若い頃に一度、お手付きされたが二度目がないまま二十八を越えたダシャ。三年前に退職し、いまは中央政府の高官に嫁いで二人目の子供を妊娠していた。


「これから先のことは、なにか考えているの?」


 ダシャに問われ、マリアナとリーズは顔を見合わせた。

 故郷とハレム以外の世界を、ほとんど知らないマリアナは、どうやって暮らしていけばいいのかも分からなかった。


「私は国に帰ります。そしてハレムで覚えたレース編みで身を立てたいです」


 力強く答えたリーズに、マリアナは驚いた。

 ダシャの世話係をしていた頃からリーズのレースは好評で、愛妾となった女性たちも競って求めたほどだった。

 ダシャは帝都の職人を呼び、リーズに商売の始め方を教えさせた。

 マリアナも再度、どうするか聞かれたが、なにも答えることが出来ず、しばらくダシャの身の回りの世話をさせてもらった。ハレムにいたときのように。



 ハレムに入ってからしばらく、マリアナは見習い女官として様々な仕事の下働きをした。叔父夫妻にこき使われていたため、仕事の覚えは早く重宝された。マリアナと違って没落していない貴族の娘は下働きの仕事をしたがらず、マリアナが代わりにすることもしばしばだった。彼女たちは引き換えに、マリアナが苦戦した言葉や礼儀作法、芸術についてあれこれと教えてくれた。


 互いに支え合う。そんな平穏な関係も、皇帝のお手がついて部屋持ちになる者が現れ始めると変化していったが、皇帝の顔すら目にする機会に恵まれなかったマリアナは相変わらず可愛がられた。

 そんな中、特別に贔屓してくれたのがダシャだった。


 体の弱かったダシャは年に一度は体調を崩し、薬種の管理部門に配置されていたマリアナを頼ってきた。

「あなたの調合した薬が一番効くの」

 柔らかな訛りのある声で頼まれる度、マリアナは張り切って調合した。そして元気になったのを確認すると涙をこぼした。

 そんな彼女を気に入り、部屋持ちだったダシャはマリアナを自分の付き人に指名した。



 ダシャの屋敷に逗留させてもらって三カ月が経った頃、マリアナは再度聞かれた。


「先々のことは決めた?」


 マリアナはためらいがちに首を振った。ダシャもリーズも、あれこれと勧めてくれていた。働き口や結婚相手を斡旋するとも言われた。けれど、マリアナはなにかが違うと感じ、決め切れずにいた。


「マリアナ……。あなた、国に帰りたいの?」


 ダシャの静かな問いかけに、マリアナの瞳は揺らいだ。両親のこと、叔父夫妻のこと、領地のこと。八年間、心の底に沈めていた思いが胸をざわつかせた。

 それでも、その問いかけを否定する言葉は出てこなかった。

 ダシャはマリアナの手を取り、手のひらを撫でた。調合の道具を使い続けたことで、一部が固くなった手のひら。


「マリアナ。あなた、私がハレムを出たあとも、薬種管理にいたのね」

「はい。あれは……においが嫌われているので」


 マリアナは苦笑いを浮かべて答えた。


「あなた、薬種屋をなさいよ」

「え……?」


 思いがけない言葉に、マリアナは目を丸くした。


「あなたの作る薬はよく効くし、ハレム秘伝だから高く売れるわよ」

「売ってもいいものなのですか?」

「帝国内では少し危ないかも知れないけど、国に帰れば平気よ」


 ――国に帰る……。


 現実味を帯びた言葉にマリアナは少しのためらいを覚えた。


「でも……なにも分からないし、お金だって」

「資金なら退職金があるでしょう。私が増やす方法を教えてあげるわ」


 大きく膨らんだお腹を抱えて、ダシャは帝都の市場へとマリアナとリーズを連れて行った。

 そこで一級品の宝飾品、美術品、ドレス、化粧品を買い揃えた。


「いいこと? 美術品は帝都を出たあとで売るのよ。店で取り扱っている品をよく見て、価値が分かる商会に売るの。もちろん、買った金額より安く売ってはダメよ」


 その資金を元手に宝飾品を追加で購入し、帝都から出たら、必要に応じて宝飾品を売るように教えられた。

 マリアナもリーズも、ハレムで帝国随一の品を当たり前のように目にしていたため、物の良し悪しを見分ける目が自然と培われていた。

 品物が揃うと、ダシャは二人を送り出した。


「なにか助けが必要になったら、いつでも連絡しなさい」


 ハレムを出たときのように、二人を抱き締めて言った。



 二カ月の旅を経て、マリアナとリーズは帝国の外に出た。

 マリアナは、特に感慨は湧かなかった。巨大で様々な国を内包した帝国。旅の間も、いくつもの国を通りすぎた。帝国の領土を出たと言われても実感はなく、また新しい国に入っただけのように思えた。

 けれど、リーズは違ったらしい。昼食を食べるのに立ち寄った店で、不意に声を上げて泣き出した。マリアナは、そのとき初めてリーズの望郷の念の強さを知った。


 さらに半月、旅を共にしたあと、二人は別れることになった。


「マリー、これあげるわ」


 別れ際、リーズは繊細なレースで作った手袋をマリアナに渡した。帝国の市場で購入したシルクで、リーズが編んだレースだった。


「ずっとマリーには助けられていたから。あなたがいたから私はハレムで頑張れたの」

「私は……なにもしていないわ。私の方が、ずっとリーズに助けられていた」


 マリアナは声を震わせ、リーズの手を取った。

 リーズがハレムにやってきたのは、マリアナより二年遅かった。十四で入ったマリアナは一番幼く、先輩たちに可愛がられてはいたが寂しさはあった。リーズが入ってきて、ようやくハレムでの暮らしに落ち着くことが出来た。


 ひとしきり泣いて、二人は別れた。

 再会の約束はしなかった。

 もう国を離れたくないと願っているのを感じたから。



 カモメの鳴き声に顔を上げる。水平線が途切れ、陸地が生まれているのが見えた。

 心臓がトクトクと駆け足になる。

 マリアナは小さく息を吐いた。


 まだ、ダシャに勧められた薬種屋を始める決意はついていなかった。ダシャに言われた通り売買を繰り返したおかげで、退職金は数倍にまで膨らんでいた。なにもせずとも、女一人なら余裕で暮らしていけるだけの資産だ。

 けれど――両親を亡くし、叔父夫妻と暮らすようになってから働くことが当たり前になっていた。なにもせずにいることが落ち着かないのも確かだった。


 マリアナは仕事のあったハレムを、少し恋しく思いながら近づいてくる港町に目を細めた。

 八年ぶりの母国ポルタベルタ。そこで私は、どんな生活を送ればいいのだろう……。

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