18.胸の奥で沈むもの
総会に備えて、マリアナは忙しく働いた。それまでより早く店へ来て、遅くまで過ごす。あちらこちらと出かけては必要なものを買った。そんな最中にもマヌエラから何度か連絡をもらい、彼女や友人たちの相手をした。ケアを施したり、美容について教えたり、内密の相談に乗ったり。
ほとんど休む間もない、ひと月だった。
その日もマヌエラに呼ばれて、マリアナは屋敷へと来ていた。初めてマヌエラと会ってから、三カ月近くが経とうとしていた。
「ねぇ。そういえば、話したかしら?」
秋に向けたメイクの話をひとしきりしたあと、コーヒーを楽しみながらマヌエラは言った。
マヌエラの話は、彼女の夫と、その愛人の顛末だった。
マヌエラの夫が愛人としていたのは、バルデム商会と競い合う海運商が送り込んだ女性だった。バルデム商会の流通にも関わるマヌエラの夫を切り崩すことで、商会に損害を与えようと目論んでいた。
ビクトリーノは、買収されていた侍女から愛人の正体と敵対商会のことを探り出し、小気味のいい仕返しをした……らしかった。
「なにをしたかは聞かなかったわ。ろくでもないことに決まっているから」
マヌエラは朗らかに笑って言った。
――男性の世界も後宮と変わらないのね。
マリアナはハレムの愛妾たちのことを思い出しながら、小さく微笑みうなずいた。
ビクトリーノが女性だったら、きっと彼女たちと上手く渡り合ったことだろう。
マヌエラは夫との関係も改善してきている、とはにかんで付け加えた。
ビクトリーノは、愛人の正体を夫には伝えなかったようだ。マヌエラが彼の気持ちを掴み直すのを待って処理した。従妹のために。
マリアナは二人の絆をうらやましく思った。いつもそばにいて、心配し、気遣ってくれる……家族。自分には、もういない存在。
――ひとりで生きていくと決めたでしょう。
マリアナは心の中で自分を叱り、コーヒーごと感情を飲み込んだ。
「その、それで……お願いがあるのだけど」
室内には他の誰もいないのに、マヌエラはマリアナに顔を寄せると小声で言った。
「子供が出来やすくなる薬がほしいの」
マリアナは口元をほころばせ、すぐに準備をして持ってくると約束した。
ほどなく迎えに来たビクトリーノと、マヌエラの屋敷をあとにした。
「どうかしたのか?」
馬車の窓から外を眺めていたマリアナは、ビクトリーノに軽く膝を触れられ我に返った。もう馬車は止まり、バルデム商会に到着していた。
「あ、いえ」
マリアナは表情を取り繕って答えた。
「明日のことを考えると、少し緊張してしまって」
「大事な日の前に悪かったな。別の日にしろ、とは言ったんだが……」
申し訳なさそうに言うビクトリーノに、マリアナは首を振った。
「構いません。私もドニャとお話が出来て、気が紛れましたから」
「今日は早めに休むといい。明日さえ乗り切れば、開業までもう一息だ」
「はい」
うなずいたマリアナに、ビクトリーノはなにか言いかけた。だが、それを言葉にする前に飲み込んだ。真っ直ぐに見つめながら、膝に置いていたマリアナの手を取り、軽く握ってきた。
二人きりになるとビクトリーノはときおり、こうして触れてくるようになっていた。視線を合わせながら肩に手を添えたり、指先に触れてきたり。
マリアナは、励ましや慰めだろうと理解した。だから、いつも感謝の気持ちを込めて微笑みを返し、するりと離れた。ひとりで立ち続ける覚悟が崩れてしまわないように。
ビクトリーノは一瞬、骨を取り上げられた犬のような表情で笑い、手を上げてマリアナから離れた。
いまもマリアナが笑んで手を引くように動かすと、かすかな苦笑を浮かべて手を放した。
馬車を降りる。
「ドン!」
そこへ商館から従業員が慌てた様子で飛び出してきて、ビクトリーノに何事か耳打ちした。ビクトリーノの顔に険しさが走る。
「すまない、マリアナ。急用が出来た。打ち合わせは、タデオ、ソニアとしてくれ」
ビクトリーノは早口で言うと、マリアナの返事も待たず商館に駆け込んでいった。
あんなに余裕のないビクトリーノを見たのは初めてだった。
なにがあったのか気になりながらも、マリアナは言われた通り明日の打ち合わせを二人と行った。そして、遅くまで最後の準備に励んだ。
夜が更けても、ビクトリーノが様子を見に来ることはなかった。
あまり眠れないまま、マリアナは朝早くに目が覚めた。雨戸越しに外からの歌が聞こえてきていた。秋の入り口を感じる清廉な空気に、朗々とした歌声と弦の震えが響く。歌詞は陽気なのに、なぜかマリアナにはもの悲しく聞こえた。
しばらくベッドに横になったまま歌声に耳を澄ませていた。




