17.近さと遠さのあいだで
翌日は、お昼を食べてから商館へと出向いた。早く仕事に集中したかったのだが、前日ソニアに訳知り顔で昼からでいい、と言われていた。
街は、花や色とりどりの布飾りで彩られ、まだ船の帰還を祝う気配が色濃く残っていた。子供たちは船乗りのような恰好をして走り回り、街の外から来た商人らしき人々も多く見かけた。
商館にも普段より多くの人が出入りしていた。
マリアナは、いつものように受付や出迎えた事務員たちに挨拶をして階段を上る。そのまま宛がわれていた小さな個室へ向かおうとしたが、後ろから声をかけられ引き留められた。
「マリアナ!」
振り返ると、三階へと続く階段から下りてきたビクトリーノが、笑顔を見せて大股で歩み寄ってきた。マリアナは、なんとなしに尻尾を振って駆け寄ってくる犬を連想した。
「昨夜はありがとう。シグエニャ号の帰還に花を添えてもらって嬉しかった」
ビクトリーノのほころんだ顔に、マリアナも微笑みを返した。
「これまでのご親切に、少しでもお返しが出来たのならよかったです」
ビクトリーノは笑顔を残しながら、戸惑ったような視線を向けた。
マリアナはビクトリーノの顔を覗き込みながら言った。
「朝まで楽しんでいらしたんですか? お顔の色がすぐれないみたいです」
「あ、ああ。まあ……けど、太陽が起きる前には帰った」
言い訳のような言葉にマリアナは小さく笑って一階へと目を向けた。
「みなさん働き者ですね。私も頑張らないと」
「それで、なんだが」
ビクトリーノは、これからは店舗の方で仕事をしたら、と勧めてきた。当分の間、シグエニャ号に関係する取引で商館は騒がしくなる。店舗の方が集中して進められるんじゃないか、と。
中庭の整備もひとまず終わったし、店舗の掃除を進めたいとマリアナも考えていた。
「ええ、そうですね。ソニアと話してみます」
どこか名残惜しさを滲ませたビクトリーノと別れると個室へ入り、言われた話をソニアにした。彼女も賛成してくれ、翌日からは商館で待ち合わせをして、店舗へ行くようにした。
これで、またビクトリーノと顔を合わせる機会は少なくなる。
マリアナは、そう思うと安堵と――少しのわびしさを覚えた。
なのに……。
ビクトリーノは三日に一度は店舗へ様子を見にきた。
掃除の開始を報告すると、事務員は手が空かないから、と言って近所の婦人たちに自ら声をかけて回り、日雇いで手伝いを頼んだ。
商品の参考のため薬種店を回ると言えば、店の場所に印をつけた街の地図を届けに来た。
マヌエラから連絡が来ると、必ずビクトリーノが自身の馬車で送迎した。
中庭に植える薬草の相談を庭師としたい、と伝えると――薬草の種や苗を携えてやってきた。どこで入手したのか翡翠草や他の希少な種まであり、マリアナは驚いた。
ソニアも訝しんで言った。
「育てていいんですかね……。薬種を売った方が商会の利益になるはずなのに」
「ご親切は有難く受け取りましょう。庭から採れる分だけで、すべてを賄うことは出来ないのだし」
そう言いはしたが、ビクトリーノから善意を受ける度、マリアナは心苦しさを覚え、祭りの晩のことを思い出した。彼はバルデム商会のドンなのだ、と。
例え度々、マリアナを訪ねて、ふらりと店にやってきても。
「ドンって……暇なんですね」
回廊のベンチに腰掛けて中庭を眺めているビクトリーノを、台所の窓から覗き見てソニアはぼそりと言った。
「忙しいから、休みに来ているんじゃないかしら?」
マリアナは苦笑を浮かべて言うと、コーヒーにたっぷりとミルクを注いだ。
昼食を買いに出かけたソニアを見送り、コーヒーを乗せたトレイを持ってマリアナは中庭に出た。ビクトリーノは表情を緩ませて立ち上がると、マリアナからトレイを受け取り、自分の隣に座るように促した。
マリアナはベンチの端に腰かけた。
ビクトリーノは反対の端にトレイを置くと、マリアナとの間を詰めるように座り直して聞いた。
「ソニアは?」
「お昼を買いに広場へ行きました」
「そう」
柔らかい眼差しを向けられていることが落ち着かなく、マリアナは前掛けを整えた。
「あ、これ……セニョーラスから贈られたものなんです」
マリアナは前掛けを撫でながら言った。リネンとコットンで織られた、しっかりとした生地。裾に可愛らしい薔薇の刺繍が施されている。
「薬種店へ見学に行ったとき、試しに買った素材で作ったクリームをプレゼントしたら喜んでくださって」
「みんなと仲良く出来てるんだな。よかった」
ビクトリーノはそっとマリアナの手に自分の手を重ね、包むように指先を握った。マリアナは息を呑み、一瞬、視線を泳がせたが、顔を上げるとビクトリーノの目を見て感謝を込めた微笑みを浮かべた。
「はい。ビクトリーノが繋いでくれたおかげです」
そして、軽く手を引いた。
ビクトリーノは、かすかにマリアナをうかがうように見て、すぐに手を放した。気まずさを払うように、トレイを引き寄せコーヒーを飲む。
しばし、店のことを話したあと、ソニアと入れ替わるように帰って行った。
その日の残り、マリアナはビクトリーノに握られた指先を無意識に撫でながら仕事をした。
そんな日々を繰り返した、ある日。
いつものように店舗へ向かおうとした二人を事務員が呼びにきた。ドンの話があるから応接室で待つように、と。
なにがあったのか心配して待っていると、ビクトリーノはタデオと連れ立ってやってきた。店の方で見せる親しげな表情ではなく、ドンとして真面目な面持ちでビクトリーノは切り出した。
「もうすぐ薬種商組合の総会がある。加入している薬種商たちが一堂に会する、半年に一度の会合だ」
「そこで、あなたの加入審査が行われます」
あとを引き継いで言ったタデオの言葉に、マリアナは身を引き締めた。初めて街の薬種店に行ったときに会ったトルドラが、グレミオの会長を務めているという。
「加入は、おそらく問題ないだろう」
ビクトリーノの確信めいた言い方にマリアナは察した。
ドン・ビクトリーノの後ろ盾がある。それだけでグレミオ加入は約束されたようなもの。けれど、強引な参加は無駄な遺恨を生むことをマリアナは理解していた。
「それでも……私は、自身の価値を示さなければならないのですね」
ビクトリーノうなずき、静かに言った。
「グレミオの一員として働いていくのは、マリアナ・スリーナチ。君なのだからな」
総会のスケジュールと組合員の簡単な名簿を渡され、マリアナとソニアは店舗へと移った。
店舗の事務室で名簿を確認してしばらく考えたのち、マリアナはソニアに言った。
「総会が終わるまでは、こちらの準備を優先しましょう」
「なにか行うんですか?」
マリアナは華やかに微笑み、答えた。
「新入りだもの。誠実に忠誠を示すだけよ」




