11.中庭に芽吹くもの
話題は日常の仕事や夫への愚痴、噂話へと転がっていく。話し方に優美さはないし、ストレートな物言いをする。後宮とは大違いな話しぶりだったが、興味や関心、感情は、どこも同じなのだ、とマリアナはセニョーラスの会話に相槌を打ちながら思った。
店舗も近くなった頃。
「おいっ、やめろ!」
ビクトノーノの声が響いた。
マリアナはびくりと体を強張らせ、立ち止まった。セニョーラスも足を止めて顔を見合わせる。何事かと考える間もなく、複数の笑い声と歓声が響いた。
一行が足早に通りを抜けると、路上に倒れたビクトリーノに二人の人影がのしかかっていた。周りでは二人と同い年ぐらい――十歳ほどの少年三人がはやし立てている。ビクトリーノは腕を抑えていた一人を投げ飛ばし、足に組み付いていた、もう一人を引きはがすと抱えながら立ち上がった。
そのまま頭上まで持ち上げられると、少年は悲鳴なのか笑いなのか、わからない声を発する。子供たちがビクトリーノに飛びかかろうとしたところで、セニョーラスが口々に言った。
「あんたたち、なにしてるんだい!」
「まったく、ドンの服をそんな汚して」
「さっさと帰って、お昼でも食べな」
子供たちはビクトリーノに手を振ると、笑い騒ぎながら駆けていった。
セニョーラスは呆れた様子でビクトリーノにも、子供じゃないんだから、とひとしきりたしなめて、戻っていった。
「ここも、あんまり安全じゃないかもな」
二人になるとビクトリーノは、おどけたように言った。マリアナも深刻そうな声音を作って返した。
「子供とセニョーラスがいるところに平穏はないんじゃないかしら」
「確かに」
二人は笑い合って店舗へと入った。
マリアナは先を歩くビクトリーノのシャツが汚れているのが気になった。上着を脱いでいたため、背中には石畳で擦ったような跡がついている。屋敷に帰れば、きっと優秀な洗濯婦がいる、と思ったが一度気になると目が離せなくなった。
中庭に出て、ビクトリーノが振り返ると思わず言った。
「お洗濯させてもらって、構いませんか?」
ビクトリーノは目を丸くして聞き返した。マリアナは頬を染め、言い訳のように背中の汚れを言う。
「君が……どうしても洗いたいのなら、どうぞ」
ビクトリーノはおかしそうに言って、シャツに手をかけた。
ボタンがはずされる度、ビクトリーノの肌があらわとなっていく。マリアナは狼狽えて、視線をそらした。
――下着は? えっ? 男性はシャツを、そのまま着るものなの?
ひどく、ぶしつけなことを言ったと焦った。しかし、いまさらどうしようもない。差し出されたシャツと交代に、バスケットを押し付けるように手渡して井戸へ急いだ。
上着を脱いで、井戸から澄んだ水を汲み上げる。冷たい水に手を浸してシャツを洗い始ると、すぐに集中して気持ちも落ち着いた。柔らかな生地は触れているだけでも心地よく、汚れが落ちて白さが戻ると笑みがこぼれた。
ビクトリーノが馬から外してきた手綱で日陰にシャツを吊るすと、ようやく昼食となった。
中庭の回廊に置かれたままだったテーブルセットに、荒い麻織物を敷いて向かい合う。初めから外で食べるつもりだったのか、用意されていた敷布だった。
ビクトリーノは上着を羽織っていたが……素肌に上着と、なんとも妙な格好。マリアナは目を向けられず、自由になって庭の雑草を食んでいる馬を眺めながら口を動かした。
セニョーラスから聞かれた店のことや広場の様子をマリアナは話した。地域の人向けの品も置きたいとマリアナが言うと、ビクトリーノもいい考えだ、と賛成してくれた。品物の選定や売り方については他の薬種店を参考にするよう助言もくれた。
残さず食べ終わると、井戸水に浸して少し冷たくしたワインを飲みながら、ビクトリーノが何気なく聞いてきた。
「ハレムでは素材の仕入れは、どうしていたんだ?」
「宦官を通じて外部に注文したり、後宮の薬草園で育てたものを使ったりしていました」
「薬草園の管理は、誰が?」
「庭師の女官と、薬種管理の私たちが共同で」
「庭師の女官もいたのか?」
驚いたようにビクトリーノは言った。
「日常的な世話をする程度でしたけど。しっかりと剪定や植え替えをするときは、宦官が入ってきて行っていました」
ハレムは、まさしく女の園だった。立ち入れる男性は皇帝のみ。皇子たちは成人までハレムで生活してはいたが、限られた区域のみで大部分の立ち入りは禁止されていた。あらゆる仕事は妃候補でもある女官たち自身で行い、皇帝の寵愛とは別の格付けがあった。
ハレムの外へ出て半年が経とうとしている。けれど、どこか日々の生活に現実味を感じないことがあった。まだハレムの中にいて、長い夢でも見ているような……。
「ここは、どうする?」
「ここ?」
ビクトリーノの声で我に返り、パッと前を向いた。ビクトリーノの胸元が目に入り、慌てて顔を戻す。ビクトリーノが笑いを含んだ声音で言い直した。
「中庭。どうせだったら薬草園にしてみないか? せっかく、これだけの広さがあるんだから、なにもしないのももったいないだろう。世話が面倒ならタイルを敷き詰めて、日陰棚を作ってもいいが……」
「薬草園がいいです!」
マリアナは正面を向いてハッキリと言った。ハレムにいたときから、外へ出て草花の世話をするのは好きだった。
ビクトリーノは、ふっと柔らかく表情を崩して言った。
「そうか。それじゃあ、庭師も探しておこう」
マリアナは、なぜか気恥ずかしさを感じ、それを隠すようにふわりと笑み返した。
「よろしくお願いします」
視線が絡んだまま、目が離せない。深みのある茶色い瞳に見つめられていると、不思議と世界から音が消えていくような感覚にとらわれた。
顔に熱い息がかかる。
マリアナは小さく悲鳴を上げて、すぐに笑った。
そばに寄ってきていた馬が鼻面を押し付けて、マリアナの顔を舐めた。
「お疲れさまでした。ありがとう」
マリアナは大きな顔に手を添えると、鼻先に軽くキスした。馬は嘶き、マリアナに顔をこすりつけてくる。マリアナは笑って馬の顔を撫でた。大きく温かな体に触れたのは八年ぶりだった。
あの子たちは、まだ元気にしているだろうか……。
マリアナは感傷を捨てて、にこやかにビクトリーノへ言った。
「ビクトリーノも、ありがとうございました」
「も?」
ビクトリーノは真面目な顔で片眉を上げて返したが、すぐに破顔した。
「店は決まった。次は道具一式だな。経費として記録が必要だろうから、経理の人間が決まってからと考えているんだが。どうする?」
「ありがとうございます。それで構いません」
「その間に店舗の修繕と掃除を進めておこう。業者は、こちらで……」
「あの」
ビクトリーノを遮り、マリアナは言った。
「修繕が必要なところはお願いしますが、掃除は自分の手で行いたいです。私の……お店になるのですから」
ビクトリーノは目を細めて、うなずいた。
「分かった。ただ、ひとりでするには時間がかかりすぎる。手の空いてる事務員を回すようにしよう」
迷惑はかけられない。マリアナは断ろうとしたがビクトリーノの眼差しに、ふと以前言われたことを思い出した。
――なんでもひとりでこなそうとする必要はない。
頼ることに心苦しさが消えたわけではなかったが、マリアナは思い直して答えた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
ビクトリーノは上着は羽織らず、洗い立てのシャツ姿で帰って行った。
マリアナはビクトリーノの馬車を見送りながら、こんなにも恵まれていていいのか、小さな不安を覚えた。自分に、そこまでの価値はあるのだろうか。
――面倒をかけないように、もっとしっかりしなきゃ。
マリアナは自分に言い聞かせて、宿に入った。




