第四話 「雨の匂い」
その日は朝から雨だった。
窓ガラスを細かく叩く雨音で、透は目を覚ました。
薄暗い部屋。
湿った空気。
カーテンの隙間から見える灰色の空。
「……最悪」
そう呟きながらも、少しだけ安心している自分がいた。
雨の日は好きだった。
街全体の輪郭が曖昧になる感じがするから。
晴れた日は嫌いだ。
世界が“活動的であること”を強要してくる。
笑え。
楽しめ。
青春しろ。
そんな空気が街中へ漂っている気がして疲れる。
でも雨の日は違う。
みんな俯いて歩く。
誰も他人を見ない。
世界全体が少しだけ静かになる。
透はベッドの上でスマホを手に取った。
時刻は午前十時半。
当然、一限は終わっている。
通知欄には大学のグループLINEが溜まっていた。
【課題提出今日までらしい】
【黒田の英語だる】
【出席代返頼む】
透は既読も付けず閉じる。
そのまま無意識にDiscordを開いた。
灰色のアイコン。
コウ。
最後のログイン:二日前。
《人生変わるかもしれん》
まだそのステータスだけが残っていた。
透は数秒画面を見つめる。
メッセージ入力欄を開く。
【大丈夫か?】
そこまで打って、止まる。
指先が動かない。
今さら何を送る。
止めるならもっと止められたはずだ。
電話だってできた。
本気で危険だと思っていたなら、もっと強く言えた。
でも自分は逃げた。
責任を負いたくなかった。
結局、“関わる覚悟”がなかった。
透は無言で文字を消した。
通知音だけが空虚に鳴る。
「……知らねぇよ」
小さく呟く。
だがその声は、自分でも驚くほど弱かった。
ーーー
午後。
透は大学へ向かっていた。
雨はまだ降り続いている。
駅前では能力者関連のニュースが大型ビジョンへ映し出されていた。
『本日、能力犯罪対策法案について政府は――』
『SNS上では能力者排斥運動も激化しており――』
『能力者による暴行事件の映像がこちらです』
またそれか。
透はイヤホンを耳へ押し込む。
最近はどこへ行っても能力者の話ばかりだった。
テレビ。
SNS。
大学。
コンビニ。
電車。
世界全体が、一つの話題へ熱狂している。
そしてその熱狂を、透は少し冷めた目で見ていた。
人間は結局、刺激が好きなんだ。
昨日までは芸能人の不倫で騒いでいた連中が、今日は能力者を叩いている。
その程度だ。
でも。
自分もその“能力者側”になってしまった。
そう思うと、胃の奥が少し重くなる。
ーーー
大学構内は雨のせいで人が少なかった。
透はその空気に少しだけ安堵する。
濡れたアスファルト。
水滴のついた木々。
灰色の空。
こういう景色は嫌いじゃない。
人気の少ない廊下を歩いていると、不意に前方から声がした。
「あ」
顔を上げる。
小野寺梓だった。
肩まで伸びた黒髪。
少し大きめのカーディガン。
胸元へ抱えた数冊の本。
相変わらず“図書館から出てきた人”みたいな雰囲気をしている。
「真壁くん」
「……どうも」
透は少し視線を逸らした。
この人は距離感が近い。
苦手だ。
でも、不思議と嫌ではない。
「講義帰り?」
「まぁ」
「嘘ですね」
「……何で分かるんだよ」
「黒田先生の講義、今日は出席確認ありましたから」
「最悪だ」
小野寺は少し笑った。
大きな声では笑わない。
でも、ちゃんと楽しそうに笑う。
それが少しだけ珍しかった。
「真壁くんって、雨の日好きそうですよね」
「……何それ」
「何となくです」
透は少し考える。
「まぁ、嫌いじゃない」
「やっぱり」
「人少ないし」
「それだけ?」
「……静かだから」
小野寺は少しだけ目を細めた。
「真壁くんって、“誰もいない場所”好きですよね」
その言葉に、透は妙な居心地の悪さを覚えた。
図星だった。
この人は時々、妙に核心へ触れてくる。
「別に」
「でも図書館でも、いつも人少ない場所座ってますよね」
「観察してんの?」
「たまたま見えるだけです」
透は小さく息を吐いた。
その時だった。
廊下の向こう側で、男子学生たちが騒ぐ声が聞こえる。
「能力者だったらさー、マジ人生変わるくね?」
「分かる。俺も超能力欲しい」
「女にモテそう」
透は無意識に眉をしかめた。
小野寺がその横顔を見る。
「……嫌いなんですか?」
「何が」
「そういう空気」
透は少し黙る。
「……別に」
否定しながら、自分でも嘘だと思った。
嫌いだ。
ああいう、“世界を自分と関係ないエンタメとして消費してる感じ”。
でも。
自分もネットで同じことをしてきた。
炎上を見て。
暴露動画を見て。
他人を笑って。
“分かった側”に立った気になっていた。
だから強く否定もできない。
「真壁くんって」
小野寺がぽつりと言う。
「本当は優しいですよね」
「は?」
「困ってる人見ると、放っておけないタイプ」
「……何それ」
「この前も、一年生が教室分からなくて困ってた時、案内してましたよね」
「たまたま」
「名乗らずに帰ってましたけど」
透は少し黙る。
見られていた。
その事実に少しだけ落ち着かない気分になる。
でも。
嫌ではなかった。
小野寺は続ける。
「でも真壁くんって、“優しいと思われる”のは嫌そうです」
「……別に」
「照れます?」
「違ぇよ」
透は少し早口になる。
「そういうのって結局、自己満だろ。善人アピールみたいで気持ち悪いし」
言いながら、自分でも少し嫌になる。
本当は違う。
ただ。
感謝されるのが怖いだけだ。
“期待される側”になるのが怖い。
「でも」
小野寺は静かに言った。
「誰にも見つからない善意って、私は好きですよ」
透は返事ができなかった。
廊下の窓を雨粒が流れていく。
その音だけが、少し長く残った。
ーーー
帰り道。
透は一人で駅前を歩いていた。
雨は少し弱くなっている。
その途中。
ふと視界の端へ、小さな古い建物が映った。
「……?」
ラーメン屋だった場所。
確か前まで閉店していたはずだ。
シャッターが降りたままの空き店舗。
でも。
今日そこには、見覚えのない看板が掛かっていた。
『Rain』
喫茶店らしい。
窓から暖色の灯りが漏れている。
「……こんなの、前からあったか?」
透は立ち止まる。
妙な違和感があった。
毎日通る道だ。
見落とすはずがない。
なのに。
“前からそこにあった気もする”。
記憶が曖昧になる。
雨音だけが静かに響く。
透は数秒その店を見つめた後、
「……まぁいいか」
小さく呟いて歩き出した。
その時。
店内の奥で、誰かがこちらを見た気がした。




