第七話 「美咲」
雨宮美咲の輪郭が、少しずつ薄れていた。
ーーー
最初は写真だった。
スマホ画像。
Rainで撮った何気ない一枚。
赤い傘。
窓際席。
コーヒーカップ。
そこにいたはずの美咲だけが、
ぼやけている。
透は何度も画面を見返した。
「……なんだこれ」
指先が冷たい。
別の写真を開く。
大学帰り。
駅前。
コンビニ。
全部同じ。
“美咲だけ曖昧”。
まるで。
現実側が、
「そこに誰もいなかった」
ことへ修正し始めているみたいだった。
ーーー
Rain。
窓際席。
美咲はいつものように笑っていた。
「そんな怖い顔しないでよ」
「……してません」
「してる」
透は黙る。
最近、
美咲の存在が不安定すぎる。
声。
記憶。
姿。
時々ノイズみたいに揺れる。
そして。
周囲の人間が、美咲を認識できない時がある。
店員が注文を聞き飛ばす。
通行人がぶつかる。
存在感そのものが薄れている。
美咲がコーヒーカップを持つ。
だが。
店員は、そのカップを
「誰も座っていない席」
へ置いたものみたいに片付けようとした。
「あ……すみません」
店員は困惑した顔で立ち止まる。
「えっと……」
目の前に美咲がいる。
なのに。
認識が追いついていない。
透の背筋へ冷たいものが走った。
ーーー
「透くん」
「……」
「私ね」
美咲は窓の外を見た。
雨。
灰色の空。
静かな街。
「最近、昔のこと思い出せないの」
透の呼吸が止まる。
「……」
「高校の時とか」
「事故の瞬間とか」
「家族の顔とか」
美咲は困ったように笑う。
「全部、“透くんに都合いい記憶”だけ残ってる感じ」
透は何も言えない。
ーーー
死者再演。
その本質。
透はもう理解していた。
“死者を蘇らせた”わけじゃない。
違う。
「失いたくない」という願望で、
現実側へ人格を固定した。
それだけ。
つまり。
今ここにいる雨宮美咲は、
“透の願望から再構成された存在”。
透はそれを認めたくなかった。
でも。
美咲自身が気づき始めている。
そして。
真壁透という観測点そのものが、
世界から剥がれ落ち始めている。
なら。
その透へ繋がっている美咲もまた、
現実へ留まれなくなる。
透は理解していた。
理解したくなかっただけだ。
ーーー
「……ごめんなさい」
透は小さく呟いた。
美咲は少し驚いた顔をする。
「え?」
「……俺」
喉が詰まる。
「多分、あなたを」
一拍。
「勝手に作り直した」
Rain店内が静まる。
雨音だけ。
美咲は数秒黙っていた。
そして。
静かに笑う。
「うん」
透は顔を上げる。
「……え」
「多分そうだと思ってた」
透は言葉を失う。
美咲は続ける。
「だって最近の私」
「自分でも変だもん」
「透くんが好きそうな反応ばっかするし」
「怒れないし」
「嫌われるの怖いし」
その声は震えていた。
「まるで」
「“透くんの理想”みたい」
透は俯く。
何も言えない。
ーーー
「でもさ」
美咲は小さく笑った。
「透くん」
「……」
「私を失いたくなかったんだよね」
その言葉。
透の胸が壊れそうになる。
ーーー
事故の日。
雨。
赤信号。
サイレン。
血。
どうしようもなかった無力感。
透はずっと後悔していた。
「もっと早く気づいていれば」
「止められたんじゃないか」
能力を得てからも。
真実を知れるなら。
過去を見れるなら。
「失わない世界」を作れるんじゃないか。
そう思ってしまった。
その結果が。
今の美咲。
ーーー
「……最低ですよね」
透は笑う。
乾いた声。
「死んだ人間を、自分の都合で引き戻して」
「本物かも分からないのに」
「勝手に安心して」
「勝手に救われた気になって」
透の視界が滲む。
「俺、結局」
「誰より自分のために能力使ってた」
美咲は静かに透を見る。
そして。
そっと透の手へ触れた。
温かい。
でも。
いつ消えてもおかしくない温度。
透はその温度へ縋りそうになる。
偽物でもいい。
そう思おうとするたび。
「本物だった雨宮美咲」
の記憶が、胸の奥で悲鳴を上げた。
ーーー
「透くん」
「……」
「私ね」
一拍。
「本物じゃなくても、いいよ」
透の呼吸が止まる。
「え……」
「だって」
美咲は少し泣きそうに笑った。
「透くんが、私を忘れたくなかったのは本当だから」
透の視界が崩れる。
世界じゃない。
自分自身が。
ーーー
その瞬間。
美咲の身体へノイズが走る。
輪郭が揺れる。
透は立ち上がる。
「……っ!」
「大丈夫」
美咲は笑う。
でも。
指先が透け始めている。
「やめろ……」
「透くん」
「消えるな」
透は初めて感情を露わにする。
美咲は静かに首を振った。
「私、多分もう長くない」
「そんなの……」
「でもね」
美咲は優しく笑った。
昔みたいに。
いや。
初めて“本物らしく”。
「最後に透くんと話せてよかった」
透は何も言えない。
言葉にならない。
世界を壊せる力を持っていても。
一人を失うことすら止められない。
ーーー
Rain窓の外。
雨が降っている。
静かな街。
誰も見ていない世界。
その中で。
美咲は透へ静かに言った。
「透くん」
一拍。
「あなた、ちゃんと誰かを好きになれてたよ」
その瞬間。
真壁透は、初めて泣いた。
誰にも観測されない場所で。
ただ一人の喪失だけを抱えて。




