第八話 「観測終了」
世界から、“真壁透”が削除され始めた。
ーーー
NRO本部。
地下司令室。
大型モニターには無数のログが流れている。
《対象情報削除進行》
《SNS履歴消去率92%》
《映像記録改変開始》
《顔認識データ破棄》
白峰零は静かに画面を見つめていた。
誰も喋らない。
空気が重い。
これが何を意味するのか、
全員理解していた。
これは作戦ではない。
“一人の人間を世界から消す”行為だ。
ーーー
「……本当にやるんですね」
若い女性隊員が震えた声で言う。
白峰は答える。
「もう、それしかない」
「でも……」
「現実維持限界です」
モニターには世界崩壊予測。
《文明維持率26%》
都市の重複。
歴史多重化。
人格崩壊。
死者再演。
現実矛盾。
全部。
“観測者”を中心に発生している。
だから。
観測そのものを終わらせる。
ーーー
Rain。
透は静かに窓の外を見ていた。
最近は通行人が完全に自分を無視する。
肩がぶつかっても謝られない。
目も合わない。
“人間として認識されていない”。
その感覚。
思った以上に苦しかった。
透はコーヒーカップへ手を伸ばす。
だが。
指先が少しだけ沈む。
陶器へ触れている感覚が曖昧だった。
現実側の輪郭が、
自分を弾き始めている。
透はゆっくり手を引っ込めた。
ーーー
「……始まったみたいですね」
小野寺が小さく言う。
透は頷く。
「まぁ」
声は妙に落ち着いていた。
むしろ。
覚悟してしまった人間の声だった。
ーーー
透はスマホを取り出す。
検索。
《真壁透》
結果。
《0件》
透は少し笑った。
「……早いな」
次。
SNSアカウント。
《このユーザーは存在しません》
大学記録。
《該当者なし》
透は画面を閉じる。
Rain店内BGMだけが流れている。
静かだった。
昔なら。
世界中が自分を見ていたのに。
ーーー
「怖いですか」
小野寺が聞く。
透は少し考える。
そして。
「……まぁ」
小さく笑った。
「正直、結構」
その声は弱かった。
今までで一番。
「……嫌ですね」
透は窓の外を見る。
「誰にも覚えられてないって」
一拍。
「想像以上に、キツいです」
小野寺は何も言えなかった。
ーーー
「俺」
透は静かに言う。
「ずっと、誰かに見つけてほしかったんですよ」
「……」
「別に特別な人間じゃないのは分かってたし」
「才能もないし」
「英語もできないし」
「留年してるし」
透は自嘲気味に笑う。
「でも」
一拍。
「透明人間みたいなのは嫌だった」
小野寺は俯く。
透を見られなかった。
自分たちは今、
“この人を世界から殺そうとしている”
のと同じだった。
ーーー
その時。
店内客の一人が透を見る。
一瞬。
視線が交差する。
「……あれ?」
だが。
次の瞬間。
「誰だっけ」
忘れる。
透はその光景を静かに見ていた。
もう怒りもない。
ただ。
少しだけ寂しかった。
ーーー
NRO。
最終段階。
《観測終了プロトコル開始》
世界中のサーバーから、
“真壁透”
が消えていく。
ニュース映像。
防犯カメラ。
卒業アルバム。
病院カルテ。
全部。
「存在しなかったこと」
へ変換される。
そして。
人々の記憶も薄れ始める。
ーーー
東京。
街頭ビジョン。
ニュースキャスターが話す。
『認識災害収束傾向――』
一瞬。
キャスターが眉をひそめる。
『……あれ?』
原稿に違和感。
何か重要な人物がいた気がする。
でも思い出せない。
『失礼しました』
そのまま放送続行。
世界は、
“真壁透がいない現実”
へ移行していく。
ーーー
Rain。
透の輪郭が少し揺らぐ。
小野寺の顔色が変わる。
「……真壁くん」
「大丈夫です」
透は静かに言う。
「なんとなく分かってましたから」
「……」
「観測されなくなった存在って」
透は笑う。
「現実に残れないんでしょうね」
小野寺は言葉を失う。
その通りだった。
真壁透は、
“観測によって成立した存在”
へ変質している。
だから。
誰にも認識されなくなれば、
存在維持できない。
ーーー
その時。
美咲が静かに店へ入ってくる。
赤い傘。
少し透けている。
でも。
笑っていた。
美咲が椅子へ座る。
だが。
軋むはずの椅子が、
音を立てなかった。
存在の重さが、
少しずつ消えている。
「……来たんですね」
透が言う。
「うん」
美咲は透の隣へ座る。
窓際席。
雨。
静かな世界。
誰も二人を見ていない。
ーーー
「透くん」
「……」
「もうすぐ終わるね」
透は頷く。
「ですね」
美咲は少し笑った。
「不思議」
「何が」
「世界終わりかけてたのに」
一拍。
「今が一番静か」
透は少しだけ笑う。
「まぁ」
「SNSないですし」
「平和ですね」
その冗談に。
二人は少しだけ笑った。
ーーー
その瞬間。
Rain店内時計が止まる。
空気が静止する。
そして。
透の身体が少し透けた。
小野寺が立ち上がる。
「……っ」
透は静かに首を振る。
「大丈夫です」
でも。
本当は全然大丈夫じゃなかった。
消えたくない。
忘れられたくない。
怖い。
怖かった。
でも。
世界はもう、
“真壁透なし”で安定し始めている。
雨は静かだった。
街は穏やかだった。
世界は。
真壁透がいなくても、
回り始めている。
その事実が。
どうしようもなく、
苦しかった。




