3 冴島襲来
僕は、駅前のパンダ広場に密集して置いてあるパンダ像を横目に、JRの高架下を駆け抜けジュエリー街に入った。
湿気を帯びた粘り気のある空気で、額から汗が噴き出る。息が苦しい。
よく分からないブランドの中国製の安いスマートウォッチで時間を確認すると、冴島さんが来るまであと十分ほどだった。
——急がないと。
御徒町は、駅の南にある春日通りから北側の蔵前橋通りと、駅の東側にある昭和通りからJRの高架までの範囲にジュエリー関係の会社がひしめき合っている。
もちろん、その範囲から外れた場所にもジュエリー関係の会社は多数存在しているけれど、一番密集しているのはその範囲だ。
線路と平行して南北に走っている道路は、線路がある西側から順にサンゴストリート、ルビーストリート、サファイアストリートという名がつけられている。
東西に走るのは北から順に、エメラルドアベニュー、ヒスイアベニュー、ダイヤモンドアベニュー、ガーネットアベニューだ。
僕は前からこの名前を不思議に思っていた。
宝石は貴石と半貴石に分けられる、貴石はダイヤモンドとサファイアとルビー、そしてエメラルドの四種類。
東西に走る通りは四本なのだから、そちらをすべて貴石の名前にすれば、縦横で貴石と半貴石が混じらずにわかりやすいと思うのだ。
僕の会社はサファイアストリート沿い、エメラルドとヒスイの間にある。
インド人のアーディブさんがやっている宝石屋【ムクティ・ストーン】の二階だ。
僕は息を切らせながら、人けのないエメラルドアベニューを走った。朝食を食いっぱぐれた胃がグゥと音を立てる。両側の店はまだ全部シャッターが閉まっていた。
サファイアストリートで右に曲がったとき、かすかに甘ったるい匂いが漂ってきて、ドキリと心臓が跳ねた。
シャッターが半分だけ開いているムクティ・ストーンの脇にある、二階へ上がる階段に足をかけたとき、香水の匂いが強くなり冴島さんが近くにいることを確信した。
二階へ上がり、入り口の鍵を開けようとしたとき、上のほうから声が降ってきた。
「おはよう」
声がしたほうに目をやると、電子タバコを手に持った冴島さんが、三階へ続く踊り場で煙を噴き出していた。
冴島さんの背後に見える青い空が眩しくて、表情は読み取れない。
「おはようございます。早いですね」
「あぁ。緊急の用事でね」
「すいません。すぐ開けますので」
僕は入り口の鉄の扉に鍵を差した。鍵を開けて鉄の扉を引くと、ガチャンという重い音とともに扉が開き、ガラスのドアが見えた。防犯のために二重扉になっているのだ。
ガラスのドアを開いて、中に入るとすぐにセキュリティが反応し、甲高い警報音が鳴り響いた。鍵束からICスティックを取り出し、警備受信機に差し込んでセキュリティを解除した。
室内は金属の冷たさを感じる匂いがする。僕はこの匂いが好きだ。しかし、今日はじっくり味わう暇はない。これから僕が好きな匂いは香水の香りに汚染される。
冴島さんが帰ったら、換気扇を全開にしようと硬く決意した。
壁面のスイッチに手を伸ばし、室内の電気を点け、エアコンを作動させてからガラスドアを開けて冴島さんに声をかけた。
「お待たせしました。中へどうぞ」
冴島さんは、電子タバコから吸い殻を取り出しながら、無言のまま階段を下りてきた。
そこでやっと表情が見えて、僕はふぅと息を吹き出した。先週会ったときよりも表情が柔らかかったからだ。いまになって考えてみれば確かに電話の話し声も穏やかだった気がした。
「これどうしたらいい?」
冴島さんが差し出した吸い殻を受け取る。
「僕が捨てておきますよ」
「悪いね」
一緒に事務所に入り、カウンターの中の応接スペースに案内する。応接スペースと言っても、窓の近くに置いた小さなテーブルの前に二人掛けのソファーが向かい合わせに置いてあるだけの場所だ。
「暑くてすいません。じきにエアコンが効いてくると思いますので、そこに座っていてください。すぐに飲み物を持ってきますから」
ソファーに座ったことを確認して冷蔵庫へ向かった僕は、ゴミ箱に吸い殻を捨てて、すぐにペットボトルのお茶を取り出して応接スペースへ戻った。
「こちらをどうぞ」
「ありがとう」
先週とはまったく違う丁寧な雰囲気に違和感を覚えながら、向かい側のソファーに腰を下ろした。静まりかえった室内で、まだ生暖かい風を吹き出しているエアコンの作動音がやけに大きく感じた。
「今日はどのようなご要件ですか?」
「実はね。会社の目標に対して、売り上げが少し足りなくてね。できるだけ早く、売り上げが取れる新商品を追加したいんだ」
思っていたよりも、かなり普通の用件に拍子抜けした。
——でも、冴島さんのことだ、きっとこれだけではすまないだろう。
そう考えながら、手元のアイスコーヒーを一口飲んだ。喉がゴクリと大きな音を立てた。




