2 冴島という男
冴島さんが初めて会社へやってきたのは、水曜の昼時のことだった。
御徒町の一般消費者向けではない業者の中には、昼休業を取り入れている会社も多い。
うちの会社もその部類で、入り口のガラスのドアには【昼休業:十二時から十三時】という札をかけている。
僕は飲むように弁当をかきこんで、休みもせずに仕事をするのが当たり前になっていた。重ねて言うが、僕はそれさえも楽しいと感じていた。昼休みにゲームをしたり本を読んだりするよりも、ジュエリーのCADを作ったり参考資料を集めたりすることに喜びを感じていたのだ。
その話しを聞いた友人は、たいてい「お前の会社ブラックじゃん」と言うけれど、僕の会社は決してブラックではない。
パートの早乙女美樹さんも職人の朴賢宇さんもちゃんと昼休みを取るし、土日もちゃんと休んでいる。もっとも、朴さんは土日に別の会社でバイト代稼ぎをしているらしいが。
早乙女さんは、「お昼ご飯ぐらいゆっくり食べないと体壊すよ。ただでさえガリガリなんだから」と口癖のように言うけれど、楽しいのだから仕方がない。
水曜の昼休業中に、僕が事務所の奥にあるCAD用のパソコンの前で頭を悩ませていると、来客を告げる高いベルの音が聞こえた。入り口のほうを振り向くと、カウンターの向こう側で、ガラス製のドアを開けて四十代くらいの男性が入ってくるのが見えた。
いかにも高そうな柄物のシャツを着ているオールバックのその男は、両腕をカウンターに乗せて体重を預けた。
早乙女さんが、お弁当を食べていた箸を置いて応対に向かう。
「いらっしゃいませ」
右手で口を隠しながら応対した早乙女さんに目もくれず、カウンターの向こう側から事務所内をジロジロと、隅から隅まで窺うように眺める男の視線に、僕は眉をひそめた。
「昼休業中に申し訳ないけど急用でね」
「は、はい。どのようなご要件でしょうか?」
戸惑う早乙女さんにウィンクをして、ニヤリと唇の端を吊り上げる。
「社長はいるかな?」
僕はそれを聞いて立ち上がった。そのままカウンターに歩み寄ると、早乙女さんの肩をぽんっと軽く叩いた。
「早乙女さんはお弁当を食べてな」
そして男の顔を正面から見た。甘ったるい香水の香りに耐えた僕が出した言葉は、少し鼻にかかっていた。
「私が社長の秋葉ですけど、どのようなご要件でしょうか?」
「あぁ……君が秋葉君か。俺はビジュアントの冴島だ。社内で配置替えがあって、生産管理課を任せられることになってね」
男は白いパンツの尻ポケットから、ヨーロッパの高級ブランドのロゴが箔押しされた皮製の青い名刺入れを取り出し、人差し指と中指で名刺をピッと差し出した。普通は両手で渡すものだし、片手で渡すとしても親指と人差し指が普通だろうと思うのだが。
「え? あぁ、そうでしたか。少々お待ちください。名刺を持ってきますので」
急いで自分の名刺を取りに、デスクへ足を向けたとき、背後からため息が聞こえた。
「前任の山村から連絡先を聞いているから、君の名刺はいらないよ」
僕が振り返ると、冴島と名乗ったその男は、不快な表情を隠そうともせず、カウンターを回り込み事務所の中に入り込んできた。
僕が両手で名刺を受け取ったとき、名刺を見る時間も与えずに言葉を続ける。
「君はどう思っている?」
「……は?」
いきなりなにを聞かれているのかわからず、思考が停止した。そんな僕の顔を覗き込む男の目は、獰猛な猛禽類のように思えた。
「先週の期中商品のサンプル納品が、三日遅れたよね?」
期中商品とは、シーズンのコレクションの途中に差し込む商品で、スピード感がものをいうのは分かっていた。でも、そのサンプルが遅れたのには事情があったのだ。
「あ、あぁ。その件ですか。すいません。途中でデザイン変更があって、石の調達からやり直したので少し遅れてしまっ——」
「言い訳は良くないよ。それでも遅れないようにするのが君の仕事だろう? サンプルの遅れは、量産の発注に影響を及ぼすのは分かっていないのかな?」
「え、えぇ。それは分かっています」
「それがわかっているなら、今後は遅れないように頼むよ。他社に量産の発注を取られたくはないだろう?」
「……はい。次から気をつけます」
「俺が担当になったからには、いかなる理由が合っても納期遅れはゼロにしてもらうからね」
冴島さんは、僕にウインクをしながらそれだけ言い残して帰っていった。入口の扉が閉まると同時に、早乙女さんが床を蹴って勢いよく立ち上がる。
「なにあれ! 信じられない! ちょっと、秋葉さん! なんで言い返さないの!?」
「い、いや。だって……」
本当に急ぎの用件だったのかはわからないけれど、僕と早乙女さんを嫌な気持ちにさせたことだけは事実だ。僕は早乙女さんのジトッとした視線を避けながら、CADのパソコンに向かった。
ただ一人、日本語が不得意な朴さんだけはずっと昼寝を続けていた。
その次の日から、冴島さんは毎朝電話してきて、今日はなにをするのか聞いてくる。
彼はきっと暇なのだ。
アイスコーヒーをチャプチャプと揺らしながら、まだシャッターが閉まっている松坂屋とパルコの間の道を走る僕に、道端のパンダ像が笑いかけていた。
今日はなにを言われるのだろうか。
心臓が速く鼓動を打っているのは、たぶん〝走っているから〟という理由だけではないだろう。




