1 月曜の朝
午前七時。耳をつんざく目覚まし時計の電子音で覚醒した僕の右手が、時計の上にある黒いボタンを叩きつけた。胸にでっかく『御徒町ジュエリーシティ』と書かれた寝間着代わりのTシャツが、背中にべっとりと張り付いている。外でワシワシと鳴くクマゼミの声が暑さを助長していた。
多くの人にとって、最も憂鬱な気分をもたらすであろう月曜日の朝。僕はここ最近その気分を味わったことはなかった。
満たされた日常——とまでは言わないけれど、自分が好きで始めた仕事。天職というやつだと思っていた。
嫌なことがまったくないといえば嘘になるけれど、基本的には毎日仕事をするのが楽しい。
そう。確かにそう感じていたのだ。先週の水曜日までは。
胸の奥と頭にずしりと重い石が乗っているような感覚に顔をしかめる。
この重い石がトルマリンの原石だったらどんなにいいだろうか。
そんなことを考えながら、顔を洗うためにタオルを小脇に挟んで部屋を出た。
湯島駅と本郷三丁目駅のちょうど中間地点にあるワンルームの家賃はおよそ五万円。
トイレと風呂は共有で不便だけれど、都内にしては破格だ。
部屋の扉を開けると、隣の部屋に住んでいる島村君が歯ブラシを口に突っ込んだまま振り返った。
「あ、おふぁようございまふ」
「おはよう」
口の端を白くしたまま洗面台を譲ってくれた島村君に礼を言って、蛇口をひねった。
彼は東京大学の三年生だ。学部は知らない。
島村君が隣に越してきたとき、素朴で素直で地味な彼を見て、東大ではなくどこかもっと親しみやすい大学の生徒だと思っていた。
とは言っても、大学受験を選択肢に入れず、高校を卒業すると同時に宝飾業界に飛び込んだ僕には、具体的な大学名はさっぱり頭に浮かばない。校風なんてもってのほかなので、単純になんとなくのイメージでそう思っただけだ。
彼がこのアパートを選んだ理由は、大学まで徒歩で十分ほどで行けることと家賃の安さらしい。
それは僕も一緒だった。職場の御徒町まで歩いていける。残業で終電がなくなったとしても帰れるし、台風で電車が止まる心配もしなくていい。最高の立地だ。
ゴワゴワの硬いタオルで顔を拭いていると、うがいを終えた島村君が話しかけてきた。
「秋葉さん。昨日も仕事だったんですか?」
タオルに埋めていた顔を上げると、島村くんは僕の黒い指先を見つめていた。
爪の間に入った黒い研磨剤はなかなか取れないが、土日を挟めば多少薄くなる。月曜の朝だというのに爪の間が真っ黒だということは、昨日もジュエリーをせっせと磨いていたということ。
島村君には以前それを話したことがある。僕はジュエリーと一緒に研磨されてツヤツヤになった自分の親指の爪を見つめて微笑んだ。
「あぁ、これね。そうなんだよ、いまちょうど忙しい時期でさ」
七月下旬は、様々なジュエリーブランドのクリスマス向けサンプル作成が佳境を迎えている時期で、ジュエリー業界は非常に忙しい。僕の会社も例外ではなく、取引先のファッションジュエリーブランド〝ビジュアント〟から依頼されたサンプルの納期が来週に迫っていた。
「あまり無理はしないでくださいね」
「島村くんも遅くまで勉強していたんじゃないの?」
昨日の夜中帰ってきたとき、島村くんの部屋の窓から明かりが漏れていたのを僕は見ていた。
「そうなんですよ。今日テストなんで」
「お互いがんばりどころだね」
彼の肩をとんと軽く叩いて、「じゃあね」と部屋に戻る。
僕の朝の準備は簡単だ。デニムにTシャツを着ればそれでおしまい。どうせ作業中は研磨剤まみれになるので、いい服を着る日なんて年に何回もない。まぁ、たいしていい服など持っていないのだけれども。
アパートを出て、五分ほど歩くと湯島天神の大きな鳥居が見えてくる。青空の下にドンッと置かれている圧倒的な存在感がある鳥居を見上げたあと、頭を下げて境内に足を踏み入れる。湯島天神の境内は僕の通勤経路だ。
大きな鳥居を抜けたあと、道路を通って進んだ先にもう一つ鳥居があるので、どこからが境内かいまいちよくわからない。
どこの鳥居で頭を下げるのが正解なのかわからないので、とりあえず一番手前の大きな鳥居の前で頭を下げて進んでいく。
毎朝、青銅でできた牛を撫でてから、〝男坂〟と呼ばれる急な石段を下りて御徒町に向かうのが僕の朝のルーチンだ。
しかし、今日は足取りが重い。できれば会社に行きたくないけれど、行かないわけにはいかないのだ。小さい会社だけれど、自分が代表なのだから。鉛のように重い足を、責任感という大きな力で引き摺り、「元気を下さい」と願いながら牛を撫でた。
男坂の上に立ったとき、眼下に見える狭く急な石段が僕はたまらなく好きだった。
右側の木々に半分隠された、青空に浮かぶ入道雲を見ながら石段を一歩下りるたびに、少しずつ空が遠くなっていくように思えた。
三十八段の石段を下りきる頃には、身体中から汗が噴き出し空腹がやってくる。住宅が建ち並ぶ細い道を進むと、すぐに湯島駅がある大通り。交番がある横断歩道の手前にあるのが、赤い看板にコーヒーカップが目印の純喫茶ラブ・ミー・ドゥ。僕の朝の癒しの空間。
ガラスがはめ込まれた木製の扉と、白い鎧張りの外壁がなんだか懐かしく思えて目を細める。鈍い光を放つ真鍮色のドアノブに力を込めると、カランカランと乾いた音が狭い店内に鳴り響いた。中に入った瞬間全身が冷たい空気に包まれ、ふっとひと息つく。店内に静かに流れているビートルズのバラードがおじいちゃんを思い出させる。
「いらっしゃいませ」
マスターの川上さんがこちらを振り向いた。
「おはよう川上さん」
「おう、おはよう。加志実君。いつものでいいかな?」
いつものモーニングセット。サンドイッチとコーヒーで税込み五百円。ワンコインで得られる朝の落ち着いた時間が、仕事前の頭の整理をするのに最高に効果的だ。
「はい。お願いします」
僕がそう応えたちょうどその時、僕のスマートフォンがポケットの中で高い音を立てながら震えた。
その瞬間、嫌な予感がした。ポケットからスマートフォンを取り出して、そこに表示された【冴島】という文字を見て顔をしかめた。
ちょうど目が合った川上さんに「ちょっとすいません」と頭を下げて、いったん店の外に出ると、全身が湿気を帯びた暑く重い空気に包まれた。
「はい。秋——」
スマートフォンのディスプレイに指を触れ、耳に押し当てた瞬間、名前を言う前に冴島さんの野太い声が聞こえた。
「冴島です。これから行くよ」
有無を言わせない物言いに、胸の奥がズンッと重みを増す。
「ちょ、まだ会社は誰もいませ——」
「三十分くらいで着くから、よろしく」
冴島さんはそれだけ言って、一方的に電話を切った。ブツリと無情な音を立てて切れた通話画面を呆然と見つめているとき、横断歩道の信号機から通りゃんせのビープ音が聞こえて我に返った僕は、ため息をつきながらスマートフォンをポケットにねじ込んだ。
三十分後。冴島さんは常に十分前にはやって来る。実質二十分後にやってくるということだ。ここからすぐに御徒町方面に向かい、JRのガード下をくぐった先の会社に着くまで約十分。
つまり、僕の貴重な朝の癒しの時間は露と消えたという訳だ。ガックリと肩を落とした僕は、再度真鍮製のドアノブに手をかけた。
「川上さん、すいません。すぐに会社に行かないといけなくなっちゃって……」
「そうだろうと思って、アイスコーヒーだけテイクアウト用で用意しておいたよ」
川上さんが差したカウンターの上には、プラスチック製のコップが置かれていた。
「ありがとうございます。さすが川上さんだ」
僕がポケットの財布に手を伸ばそうとしたとき、川上さんが手を振った。
「サービスだ。持って行きな」
「あ、ありがとうございます!」
僕はアイスコーヒーを片手にラブ・ミー・ドゥを出ると、青信号が点滅している交差点を走り抜けた。
そう。先週の水曜日から続く僕の憂鬱の原因は冴島さんだ。




