この子のせい、ですか?
正一は、待ち合わせていた昇降口で、文庫本を読みながら美古のことを待っていた。表紙が黄ばんだ、随分と古い本のように見受けられた。
正一は美古に気付いて顔を上げ、すぐにこちらが青ざめていることに気付いたようだった。
「……何かあった?」
文庫本を閉じて制定鞄に入れた正一は、ゆっくりとこちらに近付いてくる。そして、その視線が美古の後ろの赤子に移動する。
正一は赤子の表情を見たのか、わずかに眉を寄せた。赤子は今、泣いていない。まだ、笑っている。美古のクラスメイトを傷付けて。
「外で話します」
そう言って下駄箱からローファーを取り出した美古は、それを履いて早足で校舎を出た。正一が後ろから付いてくる。
外の空気はひどく冷たく、暖房で生ぬるい校舎内とは大違いだった。
美古は歩きながら、さっき起こったことを断片的に吐き出した。掃除の時間に横から意図的にぶつかってきた女子生徒がいたこと、赤子が突然これまでにないほど大きな悲鳴を上げたこと、そして窓ガラスが割れてその破片が彼女の頬を切ったこと。
自分を虐めてくる柳のことは、嫌いだ。でも、自分ではコントロールできないものが彼女を傷付けるのはやはり怖い。怪我をさせるのは違う。
これがエスカレートしたら、今度はこの赤子が学校の誰かを殺してしまうのでは……と、不安が募り、心穏やかではいられなかった。
「よくない状態ではあるね」
正一が険しい表情で言った。
「善悪の区別が付いていないんだよ。まだ赤ちゃんだから。母体に害をなす存在を敵とみなして守ろうとしてる。それこそ、殺してでもね」
赤子の意思一つで人が死ぬ。そう思うと、ずしりとプレッシャーがのしかかる。
同時に逃げ道を見つけたような気もして、期待が膨らんだ。
互いの顔が見えづらいほど闇に包まれつつある夕暮れの道で、美古は、震える声で問いかける。
「あに、が、死んだ、のは」
正一の目がこちらに向けられる。
「この子のせい、ですか?」
兄が自殺したのも。
母に見限られたのも。
祖母がいなくなったのも。
全部全部、赤子のせいにできたら、どんなに楽だろう。
「君の兄は自殺だろう。この子とは関係ないよ」
しかし、正一は美古の言葉を否定した。望みを絶たれたような気持ちだった。
正一はきっと、慰めのつもりで言ってくれている。けれど、その言葉は刃物のように美古の胸に突き刺さった。
全ての不幸の原因を別のものに押しつけたかった。兄の死だって、水子のせいだと信じたかった。けれどそうではないと断言されてしまえば――兄の死は、自分のせいだと突きつけられてしまう。
血の気が引いていくような感覚に襲われていた時、ぽん、と頭に温もりが降りてくる。正一の大きな手だった。彼の手が、安心させるように美古の髪を撫でる。
「大丈夫。君は一人じゃないよ。一緒にどうにかしよう」
泣きそうになり、つんと鼻が痛くなった。それは美古が祖母を失ってからずっと、何よりも欲しかった言葉だった。
「……ありがとうございます」
美古は、ず、と鼻水を啜る。涙は堪えた。
「まずは腹ごしらえだ。ご飯を食べよう」
正一の穏やかな声に導かれ、帰り道の途中、国道沿いにぽつんと灯りを灯す小さな食堂へ寄った。
ガラス戸を引くと、ちりんと鈴が鳴る。揚げ物の匂いがした。木のテーブルと椅子が並ぶ、こぢんまりとした空間だ。壁には色あせたメニュー札がずらりと並んでおり、味噌ラーメン、カツ丼、唐揚げ定食という文字が目に入ってくる。
カウンターの奥から店員らしい女性が顔を出し、にこやかに声をかけてきた。
「いらっしゃい。二人?」
正一が「はい」と返事し、美古を奥の席へと促した。店内では客数人が黙々と箸を動かしているだけで、混んではいなかった。
椅子に腰を下ろす。放課後の教室であんな光景を見てしまったので、まだ胸の中にざわめきは残るものの、少し落ち着くことができた。
料理を注文した後、正一が傍らに置いていた鞄を開く。学校指定の鞄ではなく、使い込まれたような古い革の鞄だった。そこから取り出されたのは一枚の地図と一本のペンである。
「この地図、書き込んでいいから、既に美古ちゃんが聞き込みを行った場所にバツ印を入れてくれないかな?」
真新しいむつ市の地図だ。わざわざ買ってくれたのだろうか。
美古は小さく頷き、手渡されたペンを握る。地図をなぞりながら、これまでに足を運んだ駄菓子屋や商店にバツ印を入れた。
「このお店はまだ?」
「はい。初めて来ました」
この食堂は学校から近い場所にあるせいで、友達同士で寄る生徒も多い。だから美古は今まで足を運ばなかった。兄のことを聞いているところを、知り合いに見られるのが怖かったのだ。また、あることないこと噂されるかもしれないから。
「そっか。ここ、古くからあって、唐揚げ定食がおいしいんだよ」
美古は正一のおすすめを聞き、唐揚げ定食を注文してよかった、と思った。
と、その時、ふと視線を感じた。美古が動かずとも、背後の赤子の顔がぐるりと横に向く。同時に、視界が移り変わる。
奥のテーブル席で、こちらを見ている存在がいた。




