ふふ
「……美古ちゃん、これ、見て」
千夏に促されるまま近付く。灰色の石がぽつんと置かれていた。大きさは両手で抱えられるほどで、表面に苔が生えている。けれど、刻まれた文字だけは、奇妙に新しい。
──〝美古〟
──〝正治〟
古い彫りではない。つい最近、誰かの手で刻まれたような浅い線だ。名前の下には、〝令和五年 七月三十一日〟という文字が薄く刻まれていた。
美古は膝をつき、指先でその文字をなぞった。
ざらついた石肌の感触が皮膚に伝わる。霧の中の冷気が頬を撫でていった。
息が苦しくなる。これは、兄が最後にここに来た日付だ。宿坊の記録と一致していた。
「……お兄ちゃん、ここに、赤ちゃん埋めたんだ……」
美古の声は震え、掠れていた。
千夏が隣で言った。
「名前、二人一緒に刻んでる……。お兄さん、自分だけじゃなくて、美古ちゃんのことも、連れてきたつもりだったんだべな」
地蔵の赤い前掛けが風にふわりと揺れた。
美古は目を閉じた。
風が頬を撫で、涙の跡を乾かしていく。
次に目を開く時には、霧が一層濃くなっていった。
息を吸うたびに肺の奥まで白いもやが流れ込んでくるような感覚がした。
ふと、霧の向こうに、誰かの影が立っているのが見えた。
背の高さ、肩の線、歩き方。美古は、兄の姿を知らない。兄を見たことがない。兄の姿は、目が見えるようになった時に、写真で見ただけだ。それでも、その影が、記憶の中に焼きついた兄そのもののように感じた。
「……お兄ちゃん……っ」
唇が震える。次の瞬間、体が勝手に動いていた。
砂利を蹴り、冷たい空気を切り裂くように、兄の幻影へと駆け出す。
「美古ちゃん!?」
背後から翔子の驚いた声が上がる。
けれど美古は止まらなかった。足元の石が転がり、霧の中で地面の傾斜も分からない。それでも兄の姿を見失いたくなくて、必死に前へ進む。
霧の中の影が、こちらを振り向いた気がした。
その顔を見ようと、一歩、また一歩と進んでいく。
「美古ちゃん、そっち、危ないよ!!」
千夏が叫び声を上げながら、美古の背中に飛びついた。
強く抱きとめられ、勢いのまま地面に倒れ込む。濡れた土と冷たい石の感触がした。
「お兄ちゃん……!」
美古は腕の中でもがきながら叫んだ。
「美古ちゃん、駄目!」
翔子も駆け寄ってきて、暴れ出す美古を押さえ付けてくる。
「お兄ちゃん、行かないで! お兄ちゃん、私を置いていかないで!」
叫びも虚しく、霧の中の幻影は、音もなく掻き消えていく。
風が通り抜け、白いもやがゆっくりとほどけていくと、そこにはもう、誰の姿もなかった。
美古の喉の奥から、息のような嗚咽が漏れた。
目の前に広がるのは、ただの岩場、冷たい地面、祀られた無数の地蔵たちだけ。
――――お兄ちゃん、どうして。
どうして私も一緒に地獄に連れてってくれなかったの。
美古はしばらく、長い時間、静かに泣き続けた。
兄は待ってくれなかった。
美古は理解した。彼に付いていけないことこそが、自分に与えられた罰なのだと。
無理やり涙を拭った美古は、兄の残した石の前に膝をついて手を合わせた。千夏と翔子もその隣で、一緒に手を合わせてくれた。
合掌した刹那、背中に伸し掛かっていた鉛のような重みが、ゆっくりと溶けるように消えていくのを感じた。肩にのしかかっていた赤子の存在が、ふっと抜け落ちていく。
最期に、赤子が「ふふ」と笑った。
風がやんで、音が遠のく。
空気の白が、灰色に、やがて墨のような闇に変わっていく。
――ああ、終わるのか、と思った。
視界が沈んでいく。まるで深い湖の底へ沈むように、美古の視界に映る輪郭が一つ、また一つと消えていった。
失われたはずの、ぼんやりとした世界が戻ってくる。
「ありがとう……」
お母さんに、初めて世界を見せてくれて。
自分は、付いていくことはできなかったけれど。この石の下にいる子がようやく成仏できたのなら、ここに来てよかったと、心から思った。
:
後日、美古はひとりで病院を訪れた。
玄関の自動ドアが開く音、エスカレーターの音、人のざわめき――音の一つひとつを頼りに、黒い世界の中を進む。
杖の先が床を叩くたび、かすかな反響が廊下の奥に消えていく。
病室の番号を指で確かめながら、ゆっくりとドアを開けた。
「来たのかい」
嗄れた声がした。祖母の声だ。
美古は小さく頷いた。杖の先を手探りで動かし、椅子の脚を探り当てて腰を下ろす。
ベッドのシーツが擦れる音がする。祖母が身動ぎしたのだろう。
「おばあちゃん……あのね」
言いかけると、祖母が先に口を開いた。
「その様子だば、成仏したみてぇだねぇ」
ふふ、と満足気に柔らかく笑う音がする。
「おばあちゃん、美古ちゃんに意地悪したわけじゃねんだよ。若ぐて、目ぇも見えて動げるほうが、美古ちゃんの力になれると思ったんだぁ」
「……それで、おじいちゃんを呼んだの?」
「そうだよぉ。もう、あんな危ねぇことはできねぇねぇ。口寄せ巫女も、引退かもしれん」
「……いいよ。私が継ぐから」
そう言うと、祖母はふふ、と得意げに笑った。おそらくこの流れも、祖母の計画通りなのだろう。だから祖母は、あの日テレビ局の取材を断らなかったのだ。
カーテンの隙間から風が入る音がして、薬の匂いと一緒に布の揺れる気配が伝わる。
「正治に、美古ちゃんを頼むって言われてたのさ」
兄の名を聞いた瞬間、美古の胸が苦しいほどに締め付けられた。
やっぱり、来てたんだ――そう思って、美古は杖を握り締める。
「去年の七月いっぱいだったかなぁ。正治はばあちゃんたちのとこ来て、しばらぐ泊まったんだ。その時、あいつがしたことも、美古ちゃんが身ごもったことも聞かされた」
「…………」
「当然、ばあちゃんは怒ったよ。美古ちゃんの身体に負担かけで、追いつめで、家庭までめちゃくちゃにしたんだもの。あんなやづ、地獄でもどごでも行ってしまえばいいと思った」
「おばあちゃん、違うの。お兄ちゃんじゃなくて、最初は私が……お兄ちゃんのこと、好きで……」
「だからあいつは、美古ちゃんの罪も背負って地獄へ行ったんだべ」
病室がしんと静まる。
どこか遠くで点滴の機械がピッと鳴った。
「美古ちゃんまで死んだら、あいつが浮かばれねぇべ。だから、これでよかったんだよ」
美古は苦しくなって、「……また来るね」と言って立ち上がった。
杖で軽く床を叩きながら歩き、扉に手をかけ、出ていこうとした間際だった。
「そういえば、正治から伝言があったよ」
祖母の声が、後ろから追い打ちをかけてくる。
美古は振り返らずに立ち止まった。
身構える。一体どんな恨み言が降ってくるのだろうと。
けれど。
「――――愛している、だど」
兄が最期に美古に残したのは、決して呪いの言葉ではなかった。
病室を出てすぐ、サチから電話がかかってきた。
『あんた、何か月もうちに来ずに、何やってんだい!』
通話に出てすぐ耳に飛んできたのは、怒鳴り声だった。
「す、すみません、スマホの充電、してなくて」
『おかげであたしの部屋が散らかり放題だよ! ふざけるんじゃないよ! 自ら教えをこうておいて、あんたには礼儀ってもんがないのかい!』
「も、申し訳ございません…………」
しばらく引きこもっていて、弘前市にも行っていなかった。
サチは相当、ご立腹らしい。
電話の向こうで大きな溜め息が聞こえる。
『……まあ、いいよ。あんたも色々あったんだろう』
「……はい」
『次の週末、うちに来て話しな』
「……ごめんなさい、私、今はもう目が見えなくて。前みたいに、凝った食事を作ったりはできないです」
『それでもいいよ』
サチがはっきりと言い切った。
『あんたはあんただろう。別にあたしは、調理ができるからあんたを呼んでるんじゃないよ。人と人との縁は、損得勘定じゃないからね』
秋めいた、涼しい風が吹き抜けていく。
かつて美古は、赤子の存在で兄を縛り付けようとした。けれど、縛り付けるものなど作らなくても、利益など与えなくても続く関係こそが、縁と言うべきものなのかもしれなかった。
サチと待ち合わせ場所を約束し、通話を終えて、スマホをポケットにしまう。
杖をついて歩き出した。
ほんの少しだけ、晴れやかな気持ちであった。




