愛してるから
部屋に戻ると、外はすっかり暗くなっていた。
山の夜は早い。街の灯りが届かないため、窓の外にはただ闇と風の音だけがあった。
小城が布団を敷き直し、灯りを落とす。
「……小城さん、沢村さん」
「うん?」
「下の名前で呼んでもいい?」
「え、今更?」
小城が不可解そうな声を出す。
突然何を言い出すのかと思ったのだろう。
今更。本当に今更だ。これだけのことを言うために、随分と時間がかかってしまった。
美古は小さな声で続けた。
「小城さんが下の名前で呼んでくれた時、嬉しかったんだ。本当は、こっちも名前で呼びたかったけど。でも、私なんかが下の名前で呼ぶの、距離詰めすぎかなって」
「駄目なんてことないよ! 私たちとっくに友達じゃん!」
隣の布団から、沢村が口を挟んできた。
――友達。彼女は、美古のことを友達だと思ってくれているらしい。
世界で自分の味方は兄だけなのだと思っていた。けれど、兄がいなくなった後も、美古は独りにはならなかった。
祖母が家族になろうと言ってくれた。正一が、美古のことを手伝ってくれて、美しい景色を見せてくれた。小城や沢村が、一緒に遊んでくれた。
世界に自分と兄だけしかいないと思っていたのは、どうやら幻想だったらしい。どうして、あれだけ不安に取り憑かれていたのだろう。どうしてそれが幻想だということに気付けず、こんな取り返しのつかないところまで来てしまったのだろう。
「じゃあ……千夏さん、翔子さん、で」
小城千夏、沢村翔子。それが、二人の名前である。ずっと知っていたのに、いつも呼べなかった。
「はい、美古ちゃん!」
暗闇の中、翔子が元気よく返事してきたので、少しだけ笑ってしまった。
美古は寝転がりながら、しばらく天井をぼんやりと見つめていた。
「明日、朝早くお参り行こっか。湧き地蔵のとこ。あっこ、水きれいなんだよ」
「うん……」
美古はそのまま、ゆっくりと目を閉じた。
遠くの地蔵堂から微かに読経の声が聞こえる。ここだけいつもの日常から切り離された別世界のように感じた。
――兄も、この宿に泊まったのだろうか。
ここで何を思っていたのだろう。兄のことを思い出すと、辛い気持ちが胸の中で渦巻いていく。
千夏が布団の中でごろりと向きを変え、ぽつりと言った。
「……あたしは、死んだら皆お山さ行く、って言われて育ったんだよね。だから、死を決意してあの山に向かうっていうのも、なんか分かる気がする」
美古は返す言葉を探せず、手元の布団を弱々しく握り締める。指先が少し冷たかった。
「美古ちゃん、お兄さんのどういうところが好きだったの?」
千夏の問う声は優しい。美古の過去を、彼女なりに受け止めようとしてくれているようだった。
「……お兄ちゃんは、私の全てだった。たかが恋愛でって思うけど、お兄ちゃんがいない世界で生きていたくない。私はお兄ちゃんを殺したのに、のうのうと生きていることが罪に感じる。きっと後ろの赤ちゃんも罰なんだよ。お兄ちゃんが怒ってるから、私は取り憑かれた」
「……でも、その子、美古ちゃんを守ろうとしてるよ」
「……どうして」
「美古ちゃんのこと、親として愛してるからじゃねぇべか?」
美古は黙った。
いなくなった正一の声が響く。
――『水子は、守ることはあっても、祟ることはないよ』
あの時の、落ち着いた声も、穏やかな笑い方も、もう見ることができない。
祖母はもう、加齢で口寄せができないだろう。
祖父は最期に、元気な体で美古に会いに来てくれた。孤立した美古を救うために。
「ちゃんと供養してあげよう。それで、その子のお母さんの美古ちゃんはしゃんとして、明日に向かうの。生きてると苦しいけど、苦しいこともいっぱいあるけど、一緒に苦しもうよ」
千夏が言う。
美古は、唇を噛みながらうつ伏せになり、布団に顔を押しつけた。
温もりのない夜の空気の中で、押し殺した嗚咽だけが小さく震えながら広がっていく。
千夏も翔子も何も言わず、美古の方へ少しだけ体を寄せた。
――『救いの手を受け取れる人になってくれ』
これが、正一の言っていた〝救いの手〟なのだろう。
美古にとって、青森で初めてできた同年代の友達。正一に背中を押されはしたけれど、正真正銘、美古自身が勝ち取った人間関係だ。
隣で千夏と翔子が静かに寝息を立て始める。
山の夜は深く、静かだった。風が宿坊の瓦屋根を撫でていく。
その音を子守唄のように聞きながら、美古はいつの間にか、ゆっくりと眠りへと沈んでいった。
夜が白んで、暗闇の縁がそっと薄れていく。館内の灯はまだ落とされている頃、早くに目が覚めた美古は外に出て景色を眺めてみた。宇曽利山湖の水面は薄い霧を抱え、山の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。良い景色だった。
宿坊での朝は早いらしかった。客室の戸をそっと閉め、廊下を歩くと、浴衣に羽織を合わせた装いのまま、他の宿泊客も同じ流れで本堂へ向かっていた。
宿坊の多くは、朝のお勤めへの参加が原則とされており、早朝に本堂で儀式が行われるらしい。客は静かに列を作り、本堂の前に整列していた。
午前六時半、本堂での朝のお勤めが始まる。僧侶の低い声に合わせ、参列者も合わせて経文を唱える。美古と翔子も他の参列者と同じく、慣れないながらに頑張って唱えてみた。隣の千夏は慣れているようで、スラスラと唱えていた。
祈りの後には焼香があり、亡くなった人々の冥福が祈られる。地元の人や遠方からの参拝者が混じり、皆が真摯な顔つきで座っている。美古は、兄のことを思い出しながら、周囲の人々と同じ所作で合掌した。
お勤めの後、美古たちはそのまま食堂へと移動した。朝食も決して派手ではないが丁寧に用意された精進料理だった。食事の前に五観の偈と呼ばれる祈りを唱えていただくのが習わしらしい。前夜使った箸を持参し、皆で静かに食卓を囲む。
食事とお勤めを終えると、観光客たちはそれぞれの予定へ向かっていく。
美古も千夏や翔子と宇曽利山湖のほとりの散策をし、境内の地蔵や湧き水に手を合わせた。
昨日よりも、いくらか気持ちがすっきりしていた。焦りがいつの間にか消えている。
宿坊を出て、敷地の砂利を踏みながら参道へ向かう。
参道を進むほどに、道脇に祀られた風車が風に揺れ、薄紫から灰白色へと変わる空を背景にカラカラと軽い音を響かせていた。
「この先さ、水子供養のお地蔵さんあるの。赤ちゃん供養しに来たんなら、お兄さん、もしかしてそこさも行ってるかもしんねぇよ」
山の朝は霧が濃く、空気がひんやりとしている。地蔵の赤い頭巾や前掛けは湿り気を帯び、風に揺れてわずかに擦れる音を立てていた。周囲には風車がいくつも差され、風を受けて微かに回っている。
地蔵たちの足元には、誰かが置いていった小さな玩具や菓子袋、花の束がある。供えられた蝋燭は夜の名残を残してかすかに煙を上げていた。
その一角──湯気の立ち昇る地面の傍で、千夏が立ち止まった。




