古瀬美古の罪 三
私が体を許すようになってから、お兄ちゃんは、私と時間を共にすることが増えた。お兄ちゃんが私に暴力を振るうことも極端に減った。
教師としてプレイベートの時間がなかなか取れない中で、どうにか時間を作って私と会ってくれるお兄ちゃんの努力を感じて、私は満足だった。
ただ、それでも、常に漠然とした不安が付き纏っていた。
――いつまでこの関係を続けられるのだろう、という不安である。
母親が、お兄ちゃんに、「いい相手いないの?」と聞いているのを聞いてしまった。お兄ちゃんが、同級生の結婚式に招待されているのを知ってしまった。
結婚式に参加したお兄ちゃんが、同い年の人の結婚を見て、焦りを覚えたり、結婚に憧れを持ったりしたらどうなるだろう。私とお兄ちゃんは、戸籍上、結婚できない。結婚しなかったら、母親から圧がかかる。いつまでも結婚しないなんてことは、きっとできないのである。
お兄ちゃんの隣には、いつか誰か、私とは別の人が立つようになるだろう。
お兄ちゃんとの未来が見えない。すなわち、自分の未来が見えない。
行き着く先は暗闇で、いずれ私は独りになる。生まれた時からずっと一緒にいてくれたお兄ちゃんを失うことになる。
そうなったら、死のうと思った。
孤独が恐ろしい。
お兄ちゃんのいない世界が恐ろしい。
お兄ちゃんを殺して、私も死ぬという空想ばかりした。お兄ちゃんが死ねば、お兄ちゃんは誰のものにもならない。でも、残されるのは嫌だから、そうなったら私も死ななければならない。だけど、目の見えない私が、大人の男性の力を持つお兄ちゃんを殺せる自信がない。どう足掻いても、八方塞がりだった。
お兄ちゃんのいる中学を卒業してから、その不安はより濃くなっていった。
同じ学校であれば、一緒に帰ったり、会いたくなったらすぐに会いに行けたりした。でも、学校が変わったら、会う時間が減る。
お兄ちゃんは今何しているんだろう、誰かいい人がいるんじゃないかと、暗い視界の中で、私はずっと不安に思っていた。ぽろぽろと涙が出てくる時もあった。
そのうち学校に行けなくなって、家に引きこもるようになった。
妊娠したのは、不登校になった後だった。
異変に気付いたのが遅かった。まだ高校生の私は、どうしたら妊娠するのかも、妊娠したらどうなるのかも知らなかった。とにかく体調不良が続いて、お腹が膨らんできた頃に、ようやく嫌な予感がした。相手は、一人しかいない。
知られたら恐ろしいことが起こる気がして、誰にも言わずに引きこもった。お兄ちゃんのことも避けるようになった。
元々不登校気味だったから、不審がられることもなかった。
お母さんは、お兄ちゃんが学校に行かなくなったら怒るだろうけれど、私に過度に注意することはなかった。だって彼女は、目の見えない私に何も期待していない。
つわりが始まって、不安が日々募っていく。それは、自分に子供ができることへの不安ではなかった。赤ちゃんができたと言ったら、お兄ちゃんはなんと言うだろう、という不安である。どうやってお母さんに隠そう。お兄ちゃんは、私の膨らんだお腹を見て、どう思うんだろう。そんなことばかりを考えた。
でも、もしかしたらこの子がいたら、お兄ちゃんは他の誰のものにもならないかもしれない。この子が、お兄ちゃんと私を繋ぐ糸になってくれるかもしれない。子供がいたら、お兄ちゃんはもっと、私のことを気にかけるかもしれない。
だったら――私は、お兄ちゃんとの子供を産みたい。
でも、お兄ちゃんはそれを望んでいないかもしれないことが、ひどく恐ろしかった。
そして、妊娠が発覚した時、案の定お兄ちゃんはこう言った。
「堕ろそう。金なら、俺が払うから。大丈夫、美古は何も心配しなくていい」
いつものお兄ちゃんだった。いつもみたいに、優しい声音だった。でも、私はそれにショックを受けた。
――――お兄ちゃんは、私との子供を欲していない。
そう確信して、絶望した。
私たちは兄妹だから、いつまでも一緒にはいられない。愛の証を産むことすらできない。
目の見えない私には、世界が見えない。でもお兄ちゃんには外の世界が見えていて、沢山の人と接する機会があるだろう。外の世界を見た時、お兄ちゃんにも新しく好きな人ができるかもしれない。その時、私がお兄ちゃんを繋ぎ止められるものは何もない。
お兄ちゃんのことを確かに愛しているのに、誰よりも愛しているのに、お兄ちゃんへの恨みのような感情が生まれた。
お兄ちゃんに強く反発し、病院は一人で行くと言った。最初は行くつもりだった。でも、兄との間にできた子なんて言えない。もしバレたら、どんな風に見られるか分からなくて怖かった。どんな噂が立つかも分からなかった。それに、子供を堕ろすということがどのようなことなのか、全く想像がつかなくて、怖かった。
未知の領域に足を踏み入れる勇気が出ないまま、月日が過ぎた。
滅多に帰ってこないお母さんに妊娠がバレるのも、時間の問題だった。
いつもは私たちのことを放任しているくせに、お母さんは私の妊娠を知ると声を荒らげた。相手は誰なのと激怒していた。
言うべきじゃないと思って、最初は黙っていた。けれど、その態度がお母さんをイライラさせたのか、ついには殴られ、堕ろせと言って腹を蹴られた。
お兄ちゃんの暴力は、母親譲りなのかもしれないと思った。
私は酷く怯えた。
母に嫌われたくなくて、軽蔑されたくなくて、これ以上暴力を振るわれたくなくて――――お兄ちゃんに無理やりされたと言った。
それが私の、人生最大の罪だ。
潔癖な母は怒り狂った。実の兄との子を妊娠するなんて頭がおかしいと叱られ、何度も叩かれた。
ついには、髪を引っ張って風呂場まで連れて行かれ、溺死させられそうになった。
「美古を殺す気か!」と叫び、守ってくれたのはお兄ちゃんだった。しかし私を庇ったが故に、今度はお兄ちゃんが、母の激しい攻撃の対象になった。
母が、「性犯罪者!」と叫ぶ声が聞こえた。
その言葉を浴びせられているのは、最初にお兄ちゃんを誘惑した私ではなくて、私に手を出したお兄ちゃんの方だった。
「気持ち悪い! あんた、何考えてんのよ! 美古が目ぇ見えないからって、無理やり孕ませたんでしょう! よりによって妹に手を出すなんて! 知らないから! あたし知らないから! こんなこと、知られたらどうなるか……っ、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!! 何で、あたしばっかりこんなことになるのよ! いつもいつも、あたしは人に恵まれなくて、不幸ばっかり!」
母の金切り声が、古い賃貸マンションの一室に響く。
性犯罪じゃないよ、と言いたかった。私とお兄ちゃんは、ただ、愛し合っていただけだと。けれど、その言葉は私の中から出てこなかったし、お兄ちゃんも、何も反論しなかった。
やがて、嵐が過ぎ去るように、母は家を出ていった。
美古は、母のいなくなった自宅で子供を産んだ。産声のない、あまりに静かなお産だった。
お兄ちゃんは、この子を埋めに行くと行って、使い古されたバレーボールバッグに小さな死体を入れた。ジッパーの閉まる音が、私とその子の最後の別れだった。
「どこへ行くの」
「青森まで」
お兄ちゃんの声が、疲れ切っているように聞こえた。
何故だか、お兄ちゃんにもう二度と会えないような予感がして、私は必死に声を紡いだ。
「いかないで」
私を、独りにしないで。
私も一緒に、地獄に連れて行って。
すると、お兄ちゃんの動きが止まった。しばらく、何の音も聞こえなくなった。
そして。
「美古、お前昔から、そうやって甘えた声出すのだけは得意だよなあ」
笑いを含ませた、今にも泣きそうな、悲しげな声がした。
「……ごめん。ごめんな。にいちゃん、もう限界でさ。お前のこともう、手に負えないよ」
それは、お兄ちゃんが私を殴った後に出す声に似ていた。
「全部俺が悪いよ。美古のそれは、俺への依存であって、俺への好意じゃない。美古には俺しかいなかったから。でも、俺にも、美古しかいなかったんだ。美古、俺はさ、間違ってたかもしれないけど、最初は本当は、美古を大切にしたかったんだ。人生を犠牲にして、尽くし続けて、その先に待っているのが地獄だったとしても。美古が大切だったはずなんだよ」
母の暴力によって足を怪我したお兄ちゃんの、少し引きずるような足音が遠ざかり、それきり、兄が帰ってくることはなかった。
その夏、お兄ちゃんは自殺した。
私が産んだ赤ちゃんの死体を持って、消えてしまった。




