君、目、見えてるよね?
彼は音もなく手元の本を閉じた。近くの椅子を軽く引き寄せ、「どうぞ。座って」と促してくる。
美古は反射的に腰を下ろそうとしたが、すぐに思い直し、椅子の縁を手探りで探す仕草をした。彼は何も言わず、じっと美古の動きに視線を注いでいた。
緊張が波のように押し寄せる。
同級生とすらろくに口をきいていないのに、一つ上の先輩と話すなど緊張する。言葉が喉に詰まり、どうにか吐き出そうと必死になった。
「あ……あの、私、」
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
隣に座った彼は、美古の心情を見透かすように笑った。その言葉のおかげで、不思議といくらか心を落ち着けることができた。
「……先輩は、私の後ろにいるコレが、見えてるんですか」
躊躇いがちに問いかける。
背後からは、今も赤子の泣き声が聞こえている。鏡にもカメラにも映らないけれど、美古の背中には確かにその重みがのしかかっていた。
「うん。いるよね。赤ちゃんが、一人」
ぞくりと背筋に寒気が走る。
美古はおそるおそる続けて問うた。
「その子、泣いてますか?」
「泣いているね。さっきからずっと。たまに〝おかあさん〟って言ってる」
「…………」
泣き声の内容を言い当てられて、美古は唖然とした。
見えている。本当に、この人は見えている。
「……これ、何だと思いますか? 朝、あの子たちが言ってたみたいに、水子の霊……ってやつですか?」
「君に子供がいたならそうだろう。その子、供養を受けてないみたいだ」
彼はわずかに眉を寄せ、憐れむように目を細めた。
美古は膝の上で拳を固く握りしめる。――やはり。自分があの子をきちんと弔ってやれなかったから、こんな風になったんだ。
「朝の子たちは、君のことをいじめているの?」
不意に彼の方から投げかけられた質問。
美古は自嘲的に笑い、胸元に垂れた髪を指先でいじりながら、俯いた。
「……仕方ないことだと思います。私が気持ち悪いのは、ほんとなんで……」
「君がそうやって自分を卑下するのは、君の視力がほとんどないから?」
美古は小さく頷いた。
本当は違う。美古の中に巣くう醜さは、もっと別のところにある。
すると。
「嘘はよくないなあ」
隣の彼が、どこか楽しむように言った。顔を上げてそちらを見ると、彼はすうっと目を細めて、見透かすように笑った。
「君、目、見えてるよね?」
美古は、ひゅっと息を飲む。
初めて他人に図星をつかれた。心臓の鼓動がどくどくと鳴る。
「俺、長年盲目の人と一緒にいたから。見えてるか見えてないかは分かるんだよね。君はちゃんと、俺の動きを目で追ってる。君というより……後ろにいるその子が、だけど」
そこまで分かるのか、と呆気にとられた。
「先輩、お名前を教えてもらえませんか」
美古は彼自身について知りたくなって、ゆっくりとした口調で問いかけた。
これまで自分からこの学校の誰かに関心を寄せることなどなかったのに、不思議と彼には名前を尋ねてみたくなった。
「せいいちだよ」
「……せいいち」
「正しいに数字の一で、正一」
美古は小さく瞬きをした。
……よく知っている人と同じ名前だ、と思った。
「私は美古です。古瀬美古」
正一は頷く。
互いに名乗り合ったことで、彼がただの先輩から、少しだけ近しい存在になったような気がした。美古は、その安心感に背を押されるように、ずっと自分の中だけで隠していたことを口にした。
「……目は、見えるようになったんです」
誰にも信じてもらえないと思っていた話だが、背後の赤子が見えている正一なら、もしかしたら。期待を込めて続ける。
「この子は私の目なんです。元々、私は本当に見えなくて。でも、この子が私の背中に張り付くようになってから、この子の視角情報がこちらに流れ込んできてるみたいに、目が見えるようになりました」
「なるほど」
荒唐無稽な告白だ。普通なら笑われて終わるだろう。
けれど正一は茶化すことなく、真剣な眼差しで美古を見つめていた。その態度に、ずっと硬く強張っていた美古の心が少しずつ解けていく。
「先に言っておくと、その子に悪気はないよ。むしろ、母体である君を守ろうとしてる。よかれと思って君に目を与えている。その子は君の敵じゃない。……でも、ずっとその状態でいるのもよくないね。君を守っている限り、その子はこの世に縛り付けられるわけだから」
この状態がよくないとは、美古自身も感じていた。正一も同意見らしい。
美古は勇気を振り絞ってさらに口を開く。
「……私の噂って、聞いてますか?」
「まあ、少しはね。田舎だから、転校生の噂はすぐ回るよ」
やはり聞かれているのかと思うと、恥ずかしさで胸がちくりと痛む。過去を隠し通すことなど、最初から無理だったのだ。それを受け入れた上で、美古はぽつりと打ち明けた。
「前の学校の先生との間にできた子、死産だったんです」
正一は驚きも否定もせず、ただ黙って続きを促した。
その静けさが、かえって美古に語らせる力になった。
「私、教師との間に子供ができたなんて誰にも言えなくて。病院へ行くのも恥ずかしくて、ずっと学校休んで部屋に閉じこもって……自宅で産んだんです。その頃には、さすがに家にいる兄に異変に気付かれてしまって」
そこまで話して、美古の喉は強く詰まった。声を振り絞るように、兄の最期を吐き出す。
「兄が、その子の死体を埋めに行って、そのまま、戻らなくなって。兄も山で死体で見つかって。……だから私は、この子の死体がどこにあるのかも分からないし、供養もできないんです」
言葉を吐ききった瞬間、胸に絡みついていた重石がずしりと落ちていく。同時に、どうしようもない罪悪感と絶望が美古の体にのしかかった。
語るだけで、こんなに苦しい。




