その水子、君の子?
一時間目は数学だった。
ストーブの熱気のせいもあってか、教室の生徒たちは気怠げだ。黒板の上の因数分解の解き方を指名された生徒の声にも覇気がない。
チャイムが鳴ると同時に、美古は杖を手にしてトイレへ向かった。たった十分の短い休み時間でも、トイレで時間を潰して、授業が終わる少し前に教室に戻るということを繰り返している。それほど教室にいたくなかった。
しかしトイレから戻った時、廊下の一角に屯する女子たちの声が耳に飛び込んでくる。彼女たちは、飽きずにまた美古の噂話をしていた。
「おばあちゃんだよ、おばあちゃん。美古ちゃん、恐山の近くにあるおばあちゃん家さ住んでるらしいんだど。そのおばあちゃん、行方不明になっちゃったんだって」
「まだ見つかってねぇの?」
「うん、先生言ってだよ」
「それって、あれじゃねが?」
「あれって何よ」
「水子の祟りって、よぐ言うべ?」
美古は、声に気付いていないふりをして廊下を歩きながら、やけに的確な一連の噂の出どころを知る。あの担任は口が軽いようだ。加えて今屯している女子たちは先生にはいい顔をするタイプであるため、先生も警戒心なく噂話の延長で口を滑らせているのだろう。
さっさと教室に戻ろうとドアに手をかけた時、廊下の向こうから柔らかい声がした。
「――水子は」
美古は、その声に妙に惹かれて顔を上げる。
女子生徒たちの向こう、背の高い美形の男が立っていた。
姿勢がよいからか、身につけた制服のブレザーまでどこか品よく見える。髪は少し長めで、その黒に近い茶色が光を受けてさらりと揺れた。肌は透けるように白く、どこか現実感を欠いた印象を与える。見覚えがないから、同級生ではない。おそらく上の学年の人だ。
彼の立ち姿だけで、廊下の空気が一瞬変わったように思えた。
「守ることはあっても、祟ることはないよ」
穏やかな声だった。
女子生徒たちはしばらくぽかんとして黙り込んでいたが、すぐに頬を赤くして視線を逸らし、逃げるように教室内へと走り去っていった。
「あんなかっこいい先輩いたっけ?」
「知らない、転校生?」
残された静けさの中で、美古だけがその姿に目を奪われたまま立ち尽くしていた。
――見たことはないはずなのに、どこかで会ったことがある気がする。
じっと彼を眺めていると、目が合った。
不思議な力に引き寄せられるかのように、目を逸らせない。
彼がゆっくりと片手を持ち上げる。指先の軌跡に目を引き寄せられるようにしていると、その人差し指は美古の背後をさした。
「その水子、君の子?」
彼の目は、美古ではなく、その後ろを見ている。
「後ろにいる、その子」
美古は驚いて、咄嗟に言葉を返すことができなかった。背中にまとわりついていた重さが、急に現実味を帯びてのしかかってくる。
何故だろう。この子は美古にしか認識できていないはずだ。後ろから赤ちゃんの泣き声が聞こえるなんて、誰に伝えても気味悪がられるばかりだった。病院に行くようにも勧められた。だから美古は、自分の背中に乗っている何かは、実在しないものだと自分に言い聞かせていた。身内の死で自分の頭が壊れてしまっただけなのだと。
けれど正面にいる彼は、美古の後ろに乗っている子供の存在を指摘した。
動揺しているうちに、彼がまっすぐにこちらに近付いてくる。
授業開始のチャイムが鳴った。すれ違いざま、彼がぽんと美古の肩を叩く。
「昼休みになったら、図書室においで。その子のこと、俺なら解決できるかもしれない」
恐ろしさと、好奇心。この男には何が見えるのだろう。もしかしたら、自分の奇天烈な話を信じてもらえるかもしれない。
暗い気持ちで日々を過ごしていた美古は、この土地に来て初めて高揚を覚えた。
二時間目以降の授業の内容は、ほとんど美古の耳をすり抜けていった。
さっきの美男子の姿が頭から離れない、と言うと色ボケしているようだが、美古の胸にあるのはそのような浮ついた気持ちではない。彼なら自分の目的を果たす手助けをしてくれるかもしれないという期待があるだけだ。
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、美古は杖を手にして立ち上がる。
視界の端で、担任がこちらへ歩み寄ろうとしているのが分かった。しかし、気付かぬふりをして足を速めた。
あの担任は授業が終わるたびに声をかけてくる。心配してくれているのは分かるが、毎度昼食が遅れるのは、正直負担だった。
「何あいつ、はえ」
「どご行ぐんだべ」
「またトイレじゃね?」
「ついに便所飯?」
背後からひそひそと、くすくす笑いが飛んでくる。そちらも無視して教室を抜け出し、階段を駆け上がった。
三階の図書室に辿り着くと、そこは昼休みの静けさに包まれていた。放課後には数人程度の生徒が自習している場所だが、今は誰の気配もない。
奥へと進み、本棚の影に差しかかった時――そこに彼がいた。
彼は朝見た時と変わらぬ姿で立っていて、こちらに気付くと、柔らかく微笑んだ。
「来てくれたんだ」
美古は、急いでここまで来たのにいざ彼を前にすると何から切り出せばいいのか分からず、口ごもる。




