目、ほとんど見えないんでしょ。
来客を迎える畳の間で、数珠を揉み鳴らす音がする。美古と、その祖母の正面に座る女性客から、ぬるりと湿ったような香水の匂いがした。
女性客は、泣きそうな顔で訴えていた。
「お願いします。彼にどうしても伝えたいことがあるんです」
ここへ来る人間には二種類いる。面白半分で美古の祖母に会いに来る観光客か、こうして本気で死んだ人間に会いたくて訪ねてくる悲しみに暮れた人か。
美古が黙って眺めているうちに、ぶつぶつと何かを呟いていた祖母の嗄れた声が、張りのある、若い男の声に変わる。
「ごめんな。腹にいる子供、一緒に育ててやれなくて。俺が、名前付けたのに」
目の前の女性が息を呑むのが分かった。
祖母の喉を借りた、全くの別人の声。そこに、さっきまでこの部屋にいたはずの老女の気配は微塵もない。
堰を切ったように、女性客から激しい嗚咽が漏れ出した。彼女は子供のように、彼の名らしきものを、声を振り絞って叫んでいる。
彼女は事故で最愛の夫を亡くしたらしい。本人は言っていなかったが、腹の中に子がいるのも事実のようだ。
ここへ来る人間には二種類いる。
でも、皆、最後の反応は同じ。怯えたような顔をして帰っていく。
美古の祖母は、本物だった。
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目が覚めると、一人だった。
幸せな夢から引き剥がされて、ひやりとした絶望を覚えた。
布団を抜け出した途端、換気のためにわずかに開けてあった窓の隙間から、肌を刺すような冷たい外気が入り込んでくる。
憂鬱だった。それでも行かなければならない。制服に袖を通し、コートのボタンをかけて玄関を出ると、凍りつくような風が剥き出しの顔面を痛めつけた。
古瀬美古は、青森県にある恐山という火山の麓、むつ市に二ヶ月前に引っ越してきた。
この町での冬は長いようで、三月に入っても雪が路肩に積もったままだ。家の前の道路には除雪車が通った跡が残り、固く締まった雪の道を踏み締めるたびに軋むような音がした。
遠くには釜臥山の稜線が白くかすみ、町の向こうからは港に停泊する船の汽笛が低く響いてくる。登校する生徒の姿はまばらで、広い道に人影が少ない分、風の音ばかりが耳に残った。
美古は自分の吐いた白い息がすぐに風に攫われていくのを眺めながら、借り物の視界で町並みをなぞる。
コンビニの看板、雪をかぶったバス停。全て以前までは、こんなにくっきりとは見えなかったものだ。
むつ市の中心部にある美古の高校は、過疎化で生徒数の減った二つの学校が統合されてできている。広すぎる校舎の廊下にはところどころ空き教室が並び、がらんとしていて少し寂しい。
美古は白杖を手に、ゆっくりと歩を進めた。
美古が教室の扉を引くと、一瞬、室内のざわめきが消えた。
杖をたたんで席に腰を下ろす。するとすぐ後ろから、小さな声が聞こえてきた。
「なぁ、聞いだが? 美古ちゃんって、前の学校で妊娠して、引っ越してきたらしいんだど」
「変だと思った。東京から、わざわざこんな辺鄙なとご来るなんて」
「しかも相手、前にいた学校の先生だって」
誰にもそんなことは言っていないのに、どうしてこうした噂は、いつの間にか形を持って広まっていくのだろう。
自分は色んなことを知っていますよ、と訳知り顔で得意げに話す女子の声が、少し耳障りだった。
「そりゃ恥ずかしくて引っ越すはんでなぁ」
「その子供、どしたん?」
「中絶したって、聞いだよ」
美古は視線を正面に向けたまま、何も聞こえなかったふりをして席に座り続けた。耳の奥には、クラスメイトの声と重なるように、幼い泣き声が微かに響いている。
「美古ちゃんって、目、ほとんど見えないんでしょ。どうやって教師たぶらかしたのさ」
「今だって先生、美古ちゃんにつきっきりじゃん。前の学校でもそうだったんでねえの」
美古は生まれつき、中心視力がほとんど出ない。かろうじて大きなものの輪郭が滲んで見えるだけで、細部は掴めない。全盲ではないが、それでも他の人よりも工夫しなければ日常生活を送れなかった。
この高校の担任は、美古の視力がほとんどないという話を美古の祖母から聞いて同情したのか、美古のことをすごく気にかけてくれている。さっきの授業で分かりづらいところはなかった? とか、黒板に書いた内容を点字にしてみたからよかったら使ってとか、美古のことをやたらと特別扱いしてくる。
ありがたいし、良い先生だと思うが、それが逆に美古が目立つ原因となっている。先生が美古に話しかけることで、授業が止まることも度々ある。そのことを鬱陶しく感じている生徒も少なくはないだろう。
いっそ、本当のことを言ってしまえたら。
いや、しかし、誰も信用しないだろう。
美古は口をつぐみ、後ろから聞こえてくるクラスメイトたちの嫌な噂話を我慢して、一時間目が始まるのを待った。
美古は、高校一年生の夏まで、母と兄と三人で東京に住んでいた。
美古が前の学校の先生と恋仲であったというのも、その結果妊娠したというのも事実だ。
そんな時、美古の唯一の味方になってくれたのは、仕事でいつも傍にいない母ではなく兄だった。潔癖な母に高校生で妊娠したなどと告げれば軽蔑されることが目に見えている。だから美古はこの事実を兄以外の誰にも言えなかった。
兄は美古を庇い、事実が広まらないように隠蔽しようとしてくれた。
しかし結局噂は広まり、美古を守るためにずっと精神をすり減らしていたであろう兄は、母からの罵倒を受けて限界が来たらしく、山奥で自死してしまった。
その夏は猛暑日が続いていた。
兄が死んだその日から、背中が重くなり、耳元で「おかあさぁん」と泣き叫ぶ声が聞こえるようになった。
その日から徐々に、美古は目が見えるようになった。まるで、背後にいる〝何か〟の目を借りて世界を見ているような感覚だった。
けれど、美古の目の病気には、根本的な治療法が存在しないとされている。十五年以上目が悪い人間として暮らしていたのに、今更治ったなどとも言い出せず、何故治ったのかも説明できない。
結局美古は、逃げ隠れするように引っ越してきたむつ市でも、目が見えないふりをしている。




