古瀬美古の罪 一
お兄ちゃんと私は、兄妹のわりに、年が大きく離れている。私が生まれた頃、お兄ちゃんは既に小学生だった。
お兄ちゃんはしっかり者だった。小さな私が可愛かったようで、仕事人間でほとんど外にいるお母さんの代わりに、私の面倒を見てくれた。
ただ、おそらくそれは、お兄ちゃん個人の時間を犠牲にすることで成り立っていた関係だったのだろうと思う。
お兄ちゃんは、思春期も、受験期も、目の見えない障害を持って生まれた私に付きっきりだった。同年代の友達との時間も満足に取れず、平日も休日も、幼い私の面倒を見ていた。お母さんが滅多に帰ってこないから。
でも、お母さんが帰ってこないのは、仕方のないことだった。お母さんを裏切ったお父さんたちが悪いのだと、私はそう思った。女手一つで二人の子供を養うには、働かなければいけない。だから、私はお兄ちゃんと力を合わせて、お母さん抜きで成長していかなければいけなかった。
そんな日々の中で、お兄ちゃんは時折、私を殴ることがあった。
それは決まって、私がお兄ちゃんの指示通りに動けなかった時や、目が見えないが故にお兄ちゃんに迷惑をかけた時だった。
「ごめん、ごめんなぁ、美古。にいちゃんを許してくれ」
そして、そのたびにお兄ちゃんは泣きながら私に謝罪した。本当に辛そうだった。
殴られたら痛いけれど、別に、お兄ちゃんに殴られるなら気にならなかった。体が痛いだけで、心は痛くなかった。だってお兄ちゃんは、私に悪意があって殴っているわけではないと分かっているから。
ただ、私を殴った後、悲しそうに泣き出すお兄ちゃんの声を聞くのは辛かった。
「私、気にしてないよ。お兄ちゃん、大好きだよ。私が悪いの。ごめんね」
お兄ちゃんを安心させるようにそう言って、腕を広げて抱き締める。そうすれば、お兄ちゃんは徐々に落ち着いて、涙も引っ込んでいくのだった。
お兄ちゃんは私を殴った日は、詫びるように私を外食へ連れていった。
そのうち、いつしかお兄ちゃんはアルバイトができる年齢になっていて、私の傍から離れていくようになった。
私はそれが不満だった。お兄ちゃんは、毎日自分の学校帰りに私を学校まで迎えに来て、家まで届けて、すぐにアルバイトに出かけていく。一緒に過ごせる時間は以前よりも減って、私は、一人でいることが多くなった。
音のしない、静かな部屋で、独り。私はそれに耐えられなかった。音楽をかけたり、ラジオを聴いたりしても、それらは人と一緒にいる時間ほどには私の孤独を埋めてくれない。
だから、だから――アルバイトに行かないでほしいと、お兄ちゃんに言ったことがある。
途端、お兄ちゃんは豹変した。
「誰のために稼いでやってると思ってんだよ!!」
傍にあった何かが蹴り飛ばされる音と、それが壁にぶつかる大きな音がして、私は震えた。
お兄ちゃんに怒鳴られるのは慣れている。でも、物が壁にぶつかる音は、まだ慣れない。
私のアルバイトに行かないでほしいという要求は、余程お兄ちゃんの逆鱗に触れたらしい。いつもならすぐに謝って、私に許しを請うてくるお兄ちゃんは、この日だけは怒りが長く持続していて、饒舌だった。
「美古、お前、知らねえだろ。母さん、男いるよ」
男?
私は一瞬、何を言われているのか分からなかった。
男、というのは、異性の相手、恋人という意味だろうか。
「何も知らねえで、俺に守ってもらって、お前だけが幸せで、いいご身分だよなあ」
そんなはずはない。そんなことは、お母さんから聞いたことがない。お母さんは、恋人なんか作らないで、ずっと仕事をしているはずだ。だから私たちの元に来ないのだ。だから、私たちが放っておかれているのは、仕方のないことのはずなのだ。
だってお母さんは、私の憧れ。普通の家庭には両親がいるのに、お母さんは一生懸命一人で二人分働いて、美古たちを育ててくれた尊敬に値する人。きらきらと輝いている人なのに。
「あいつ、毎日仕事とか行って出てくけど実際はろくに働いてねえし、男に会いに行ってるだけだよ。うちの生活費は、俺がバイトで稼いだ金と扶養手当とお前の障害手当、保護費が中心で、母さんが俺とお前のために使ってる時間なんてこれっぽっちもねーんだよ」
お兄ちゃんが話すたびに、美しいお母さんへのイメージがガラガラと崩れていく。
私は、お母さんの顔を見たことがない。だから、お母さんはいつも、イメージの世界の中にいる。その美しくて格好いいお母さんの姿が、ひび割れていく。
「大体、何度も離婚繰り返してる奴にろくな人間いるわけないだろ。母さんは年取っても女でいることをやめられねえんだよ。男が好きだからすぐ結婚して離婚すんの。分かった? なあ、聞いてんのか」
「り、りこ、離婚……?」
「お前、それも知らねえのかよ。頭空っぽだなあ。計算したことないわけ? 俺たちの年が離れてるのは、父親が違うからだ。俺は母さんの最初の旦那の子供で、美古は別の男との子供」
崩れていく。
壊れていく。
お兄ちゃんが私の中のお母さんを汚した。
憧れであった母親を、汚いもののように思った。
その日から私にとって、家の中で頼れる相手はお兄ちゃんだけになった。
お兄ちゃんだけが、世界で唯一の、私の味方だった。




