救いの手を
夏が終わりかけようとしていた。
窓の外では、風鈴が小さく鳴っている。庭の紫陽花は色を失い始め、遠くでは蝉が鳴きはじめていた。湿った空気が部屋にこもり、髪がべたついている。
最初のうちは頻繁に様子を見に来ていた担任も、いつしか足を運ばなくなった。
赤子は泣かなくなった。代わりに、背中の重みが増していく。立ち上がるたびに息が詰まる。
夏は、美古にとっては、兄の死を思い出す季節だった。
兄の命日を探すのも、もうやめた。
どれだけ聞き込みをしても、兄を覚えている人はほとんどいなかった。
人は簡単に忘れる。そうして誰もが、誰の記憶の中にもいない存在へと変わっていくのだろう。
あの葬儀の日を思い出す。
白い花に囲まれた棺の中で、兄は穏やかに眠っていた。けれど、それはもう兄ではなかった。綺麗にされた抜け殻だけがそこにあった。
その瞬間、美古は絶望し、そして、後悔した。
ずるりとベッドから這いずり出る。
重たい体を引きずりながら階段を降りると、木の板がぎしりと軋んだ。
キッチンに立ち、錆びた包丁を抜き取る。指先が震える。けれど、胸の中は不思議と穏やかだった。ようやく解放されるような心地がしていた。
祖母がよく過ごしていた畳の間へ向かい、襖を開ける。
線香の香りがした。
この家も、もう空っぽだ。
美古はふらりと畳の上に座り込んだ。
骨の浮いた手が、包丁を握る。
切腹には、責任を取るという意味合いがあるらしい。
――人を不幸にした責任を、取らなければいけない。
どれだけ痛くても構わない。
息を吸い込み、歯を食いしばり、腹に刃を向けたその時。
――襖が、音を立てて開いた。
顔を上げる。
そこに立っていたのは、正一だった。
驚きはなかった。ただぼんやりと、鍵をかけていたのに、何故いるのだろうと思っただけだった。
手の力が抜けていく。数日、ろくに食べていないせいで体は鉛のように重い。
もう、何もかも終わらせたかった。元々そのつもりだったのだから。
なのに、正一はゆっくりと歩み寄ってくる。
その表情は、夏の光に溶けるように穏やかだった。
「美古ちゃん。それを、離してくれないかな」
その声は、遠い波音のように柔らかく響いた。
「頼む、俺の言うことを聞いてくれ。俺は今度こそ、もう君に会えなくなる」
正一のことを幻のように感じてぼうっとしていた美古は、はっと我に返り、手の中の包丁を握り直した。
「……来ないで、ください」
「どうして」
「本当は、ずっと前からこうするべきだったんです。お兄ちゃんの降霊なんて、そんなことできるわけない。私はおばあちゃんじゃないんだから。適当な理由をつけて、この世に居続ける、自分への言い訳を作りたかっただけなんです」
頬を伝う涙が、気付けば止めどなく流れていた。それはぼろぼろと溢れ、膝に落ちていく。
「……やっぱり、最初から自殺しようと思ってたんだね。だから死相が出てたんだ。……ごめんね、俺は、美古ちゃんに死んでほしくないから。今、それを止めに来てる」
「ごめんなさい。それはできません」
「どうして?」
「正一先輩こそ、どうして私を止めようとするんですか。私はもう嫌なんです。幸せになろうとするたびに、お前にはそんな資格ないって思い知らされる。それがもう、嫌だ……っ」
嗚咽まじりの声が漏れた。
正一は一歩近づきかけて、しかし途中で足を止めた。彼は眉を下げ、何故か痛みを抱えたような表情で言葉を吐き出す。
「辛い思いをしている美古ちゃんに死んでほしくないのは、俺の我が儘だよ」
「何で、そんなことっ、私の命なんて、あなたには関係ないのに」
「俺は君を愛している。俺が愛している人も、君を愛している」
「あなたに何が分かるの! 私のことを最も愛してくれていた人は死んでしまった! お母さんからの愛情も、私は失った! おばあちゃんだってもういない! 私のことをろくに知らない人間が、私の罪を知らない人間が、知った風な口きかないでよ! 私のこと止める気なら、殺してやる!!」
喉が裂けるほどの叫び声とともに、美古は立ち上がった。手の中の包丁を握り締め、ただ衝動のままに、正一へと腕を振り上げた。
けれど、正一は微動だにしなかった。
美古の動きが止まる。
ほんの少し脅せば怯えて逃げ出すと思っていた。なのに、正一は一歩も退かない。
ふと、正一の肩に提げられた古びた鞄が目に入った。
やはり、見覚えがあった。以前も、どこかで見たと感じていた鞄。記憶の底から、忘れていた声がふっと浮かび上がる。思えば、正一の声は、美古のよく知る彼によく似ている。
美古は力が抜けて腕を下ろした。包丁が畳の上に落ち、小さく音を立てる。
やはり。
この人は。
「……美古ちゃん。最後に一つだけ、お願いがある。救いの手を受け取れる人になってくれ」
正一の声は、夏の夕暮れの風のように柔らかかった。
「美古ちゃんは殻に閉じこもって、ずっと一人でいようとしている。でもそれじゃあ、誰も助けてくれないよ。救われるには、救われる準備がないと駄目だ」
「私、救われる価値なんてないよ……みんな、みんな、私のこと、気持ち悪いって言うの。私が、気持ち悪いことをしたから。気持ち悪い、子供を産んだから」
美古の声は震え、掠れ、もうほとんど息のようだった。
けれど、正一は美古の言葉をはっきりとした口調で否定した。
「いいや。美古ちゃんを助けたいと思ってくれる人は現れるはずだ。美古ちゃんにはまだ未来がある。先がある。いつか必ず何かが始まる。君のことを理解して、助けてくれる人が現れる。だからそれまで、耐えてほしい」
その言葉とともに、彼は膝をついて、美古をそっと抱き締めた。
その腕の中で、美古の細くなった体が小刻みに震える。
「もう一度言うよ。俺は君を愛している。俺が好きな人も――俺が愛している人も、君を愛している」
次の瞬間、正一の体が淡く揺らめいた。
その輪郭が歪み、溶けるように形を失っていく。まるで光に溶けていく霧のように、姿が変わっていった。
そこに残されたのは――眠るように意識を失った祖母の姿だった。
美古は呆然としながら顔を上げ、部屋の隅に飾られていた遺影へと目を向けた。
――祖父の名前は、古瀬正一。
喉の奥がひくりと震える。
盲目の祖母はずっと、美古を励ますために、祖父を降霊させていたのだ。元気な、若き日の姿で。




